2度目の発注
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最初に生産された製造番号2004から2053までの50輌(番号2001から2003は試作車が使用)は1936年5月9日から1937年2月23日までの間に受領されたが、国防省は1937年4月10日に新たに50輌の発注を決定し、兵器諮問委員会(Conseil Consultatif de l'Armement )にも1937年5月に承認された。これは高価で陳腐化しつつあるルノー B1の製造が続けられるべきか否かという当時行われていた議論と関係しており、あらゆる選択肢を残す目的でルノー D2の生産が継続された。ルノーは年間200輌の製造が可能だと保証した。実戦配備されたこの戦車についての1937年の最初の報告書では明らかに信頼性い車両であると警告していた。にもかかわらず、1938年6月に生産命令が下った。しかし、ルノーの深刻な財政的および社会的問題のために、当初しばらくの間は生産を実施できなかった。予備部品の生産さえ遅延したために既存車両の信頼性の問題はなおのこと悪化した。 ルノーは同時期に生産していた戦車AMC35でも躓いていた。AMC35への関心はベルギーのような他国の購入者からも多かれ少なかれ注がれ続けており、ルノーD2でも類似の事態が発生した。1936年9月にフランス兵器購入のために獲得した10億フランの輸出信用を用いてルノーD2の自国での生産すべきかどうかを調査する委員会が1938年8月にポーランドから到着した。当初ポーランドはより近代的なソミュアS35の導入を望んでいたが、フランス軍への配備を優先するために拒否されていた。技術移転とライセンス生産の是非の問題によって複雑化した交渉は当初は頓挫してしまう。1939年初頭には後期生産型をポーランドに送ることが検討されたが、これはフランスの最高司令官モーリス・ガムリンによって差し止められてしまった。彼は先に生産された50輌の状態が非常に悪く、1個大隊にこの戦車を実戦配備させ続けるには新しい車両へ完全に置き換えることが最善だと考えていたのである。その後に引退させた車両を火炎放射戦車へと改造することが考えられていた。 第二次世界大戦が始まった後の1939年9月27日、エドゥアール・ダラディエはこの戦車は将来の更なる量産が見込まれた戦車ではないが、それでも以前の製造型を代替する必要を認めて2回目の発注は完遂しなければならないと決定した。 また初期生産型のうち15輌を火炎放射戦車にすることも命じた。この事業から得られる収入によってルノーが製造を再開できるようになった。計画では1940年2月に5輌、3月に8輌、4月から6月は毎月10輌、7月に最後の7輌が納入されることが見込まれていた。実際には2月に6輌、3月に17輌、4月に6輌、5月に13輌、6月に8輌が納入された。軍への配備は3月27日に5輌(製造番号2054-2058)。4月22日に8輌(N°2059-2062と2065–2068)。5月6日の10輌(N°2069-2078)、5月25日には12輌(N°2079-2090)、6月6日に2輌(N°2063と2064)。残りの13輌(N°2091-2103)については配備されたかわかっていないが、少なくともルノーの工場が6月12日に避難しなければならなくなったとき南方へと送られたことはわかっている。 2度目の生産で作られた車両にはいくつかの改良が施されていた。最も重要なのは長砲身SA35戦車砲を搭載のAPX 4砲塔への換装で、約2倍の装甲を貫通でき対戦車戦闘能力が劇的に向上した。砲弾の長さが伸びたため砲弾の搭載数は108発に減少した。新砲塔では単眼鏡の代わりにPPLR X 160エピスコープへと置き換えられ、後部ハッチ上方の砲塔上面に対空火器として機関銃を乗せるためのS 190 Gアタッチメントポイントが配置されていた。ルノーB1の改良型がB1 bisと名付けられたのと同様に1940年の内部文書には "Char D2 bis"として記載したものもあったが、公式には改名されなかった。 その他の変更点として下部転輪用の軸受けの強化や履帯が外れにくくするために起動輪と遊輪の形状の変更、泥除けの縮小、アンテナの軽量化、バッテリーの消費を抑えるためエンジン起動装置などの変更のよな足回りに関する改良が施されている。
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