2度目の滞日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 04:38 UTC 版)
「ジュリアス・ソーパー」の記事における「2度目の滞日」の解説
1886年、再び東京に赴任したソーパーは、1890年以降、日本の全国禁酒運動と密接に結びついていく。おりしも大日本帝国憲法が公布され(1889年2月11日)、奉祝大行列を目撃したり、1905年秋、戦場から帰朝した東郷平八郎と上村彦之丞の凱旋式典では日比谷公園の特設会場に招かれている。 1892年から1895年にわたる北海道赴任を含め、メソジスト監督教会に関連して伝道活動を務めたソーパーは、1896年に東京に戻ると青山学院神学部の教授職に就き、しばらく同学部長を務め(1901年–1908年)、退官前は教授に専念する。 この期間に1892年と1900年の2回アメリカに出かけると、日本を代表してメソジスト監督教会宣教会年次会議ならびにアメリカ全国総会に参加した。2回目の時は4月にエキュメニカル・ミッション会議に出席した(ニューヨーク)。
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