2度目の渡仏とパリ万博
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 13:39 UTC 版)
慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会に出展した幕府の派遣使節(代表は後の水戸藩主・徳川昭武)に随行、公使館書記官に任ぜられる。この万博において、日本から幕府とは別に薩摩藩が「日本薩摩琉球国太守政府」の名で出展し、独自の勲章まで作成していた。田辺は薩摩側代理人モンブラン伯爵(ベルギー貴族)に抗議したが聞き入れられず、幕末の政争がパリにまで飛び火した形となった。
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