その後のウィリー
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「ウィリー・ウィリアムス (格闘家)」の記事における「その後のウィリー」の解説
バスの運転手が本業であるウィリーだが、試合のオファーが入ると都度参戦するようになっていた。正道会館の石井和義から参戦のオファーがあり、これは「USA大山空手vs正道空手5対5マッチ」の団体戦へ発展して、1991年6月4日に実施された。大将戦に参加したウィリーは佐竹雅昭と対戦し、判定負けした。 1992年3月5日、リングス初参戦。ピーター・スミット(元キックボクサーとは別人)にTKO勝ち。同年7月16日、リングスで前田日明と対戦。3R2分3秒、腕ひしぎ足固めで一本負け。 1997年1月4日、引退間近のアントニオ猪木と「ファイナル・カウント・ダウン 6th」で再戦。この試合は決め技限定(猪木=コブラツイスト、ウィリー=正拳突き)という特殊ルールで行われたが、猪木がコブラツイストを決めウィリーが敗北。 1999年11月23日、「FMW旗揚げ10周年記念大会」でBADBOY非道と対戦し、KO勝ち。 格闘家を引退してからは、木彫り職人として活動しながら後進の指導に当たっていた。 2019年6月7日、心臓病のため、アメリカで死去。67歳没。
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