その後のカラヒタイ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/11 19:20 UTC 版)
「バラク・ハージブ」の記事における「その後のカラヒタイ朝」の解説
バラク・ハージブの死後、ルクヌッディーンとクトブッディーンはモンゴルの宮廷の有力者たちの力を背景にしてケルマーンの王位を争った。 オゴデイ・ハーンはルクヌッディーンのケルマーン王位を認め、グユク・ハーンの即位時には大臣チンカイに支持されたルクヌッディーンが王位を保持した。モンケがハーンに即位してグユクの党派が失脚すると、クトブッディーンがマフムード・ヤラワチの支持を得てケルマーンの王位を手にする。1253年(もしくは1254年)、王位争いに敗れたルクヌッディーンはクトブッディーンによって殺害される。フレグの征西にあたって、クトブッディーンはフレグに臣従を誓い、1257年(もしくは1258年)に没した。 モンケはクトブッディーンの子ハッジャージュをケルマーンの王に封じるが、ハッジャージュは幼く、クトブッディーンの妻クトルグ・テルケンがハッジャージュを後見した。成長したハッジャージュはクトルグ・テルケンと対立、クトルグ・テルケンは女婿にあたるイルハン朝のアバカ・ハンに助けを求め、アバカよりケルマーンの支配権を認められる。ハッジャージュはインドの奴隷王朝に亡命し、王位の奪還を果たさないまま帰国中に没した。 アフマド・テグデルがイルハン朝のハンに即位した後、1282年にクトブ・ウッディーンの次子ジャラールッディーン・ソユルガトミシュはテグデルよりケルマーンの王位を認められ、クトルグ・テルケンを廃位した。クトルグ・テルケンはタブリーズのイルハン朝の宮廷に逃れ、イルハン朝の官人はソユルガトミシュとクトルグ・テルケンの和解を望んだ。同年にクトルグ・テルケンは亡命先のタブリーズで客死する。 アルグンがテグデルを討ってイルハン朝のハンに即位すると、テグデルの後援でケルマーン王位を得たソユルガトミシュは裁判にかけられるが、王位の保持を認められた。1291年にイルハン朝のハンに即位したゲイハトゥは妻のパードシャー・ハトゥンをケルマーンの支配者とし、翌1292年に帰国したパードシャーによってソユルガトミシュは処刑される。 1306年、シャー・ジハーンは告発を受けてオルジェイトゥ・ハンの宮廷に召喚された。シャー・ジハーンはオルジェイトゥに罰せられなかったものの、ケルマーンへの帰国は認められなかった。ケルマーンはイルハン朝の統治下に置かれ、シャー・ジハーンはシーラーズに隠棲した。シャー・ジハーンはシーラーズで財貨を蓄え、彼の娘はムザッファル朝の建国者ムバーリズッディーン・ムハンマドの元に嫁いだ。
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