その後のカリヨン砦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 02:05 UTC 版)
「カリヨンの戦い」の記事における「その後のカリヨン砦」の解説
イギリスの奇襲から砦は守られたが、その後タイコンデロガと名を変えたカリヨン砦は、難攻不落の代名詞となった。砦は翌年、事実上イギリスの手に落ちたものの、その後の砦の駐屯部隊とその上級士官たちは、この砦の欠陥を詳しく知らず、難攻不落であるという魔力に屈することになる。1777年、アメリカ独立軍の将軍ジョン・バーゴインが、サラトガ方面作戦の初期にシャンプラン湖を渡った時、この砦を初めて見たジョージ・ワシントンが、その防御における価値を高く評価した。バーゴインの到着前に、防御の準備をしていたアンソニー・ウェインは、ワシントンにこの砦を「多くの兵の流血なしには、とても攻め落とせない」と書き送っている。しかしタイコンデロガ砦は、1777年の7月、さほど大きな戦闘もないまま降伏した。
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