その後のウトラキスト派の運命
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「フス戦争」の記事における「その後のウトラキスト派の運命」の解説
その後もウトラキストの系統が分派しプロテスタント諸派としてボヘミアで根強く政治的影響力を保ち続け、1458年にはラースロー5世ことハプスブルク家のラディスラフの死後、プロテスタント貴族イジーをボヘミア王に擁立した。1459年のエーガー条約(ドイツ語版、英語版)によって、ボヘミア王国とザクセン公国の勢力範囲が確定された。 ハプスブルク家を中心とする勢力はハンガリー王フニャディ・マーチャーシュを1469年にボヘミア王に擁立して互いに対立した。 1471年にイジーが死ぬと、プロテスタント貴族によってヤギェウォ家のポーランド王カジミェシュ4世の息子ヴワディスワフが迎えられ、ヴラジスラフ・ヤゲロンスキーとしてボヘミア王に即位した。ボヘミア王を主張し続けたマーチャーシュが1490年に死ぬと、ポーランドから来たボヘミア王ヴラジスラフはハンガリー王ウラースロー2世としても即位し、ボヘミアとハンガリーの王となった。以後ボヘミア王国ではプロテスタントが認知され、しばらくの間安定した。ラヨシュ2世の治世に、モハーチの戦い(1526年)でオスマン帝国に大敗し、第一次ウィーン包囲でサポヤイ・ヤーノシュがオスマン帝国についたことにより、オスマン帝国領ハンガリー(1541年 - 1699年)が成立し、バルカン半島の領有が確定。 三十年戦争の白山の戦い(1620年)でスラヴ人かつプロテスタントであったチェコ貴族が全滅させられ、ドイツ人かつカトリックであった貴族が支配者としてチェコに入ってきた。以後チェコは完全にドイツ人の支配下に入る。一部のプロテスタント貴族やその追従者は、必死で逃げ延び宗教的に寛容で当時は特にプロテスタント運動が盛んだったポーランド王国に亡命した。ニコラウス・フォン・ツィンツェンドルフと共同生活の兄弟団などもフス派を起源とする。 18世紀後半に入ってポーランド王国がポーランド分割によって滅亡すると、多くが新天地を求めてアメリカ合衆国など「新世界」へ移住していった。
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