皇后となるまで
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257年、西晋の高官である賈充の三女として生まれた。271年7月、涼州で禿髪樹機能の乱が起こると、父の賈充は長安への慰撫を命じられたが、洛陽から離れる事を嫌った賈充はこの人事を棚上げにするため、娘の賈南風を皇太子司馬衷(後の恵帝)の妃とするよう武帝司馬炎へ勧めた。だが、司馬炎は司馬衷の妃として衛瓘の娘を迎えようと考えていたので、これに応じなかった。 11月、郭槐(賈南風の母)は皇后の楊艶(楊元后)の侍従へ賄賂を贈り、自らの娘が太子妃になるように裏工作を行った。これにより、楊艶は賈充が晋王朝成立の功臣であることをもって、賈南風を太子妃とするよう司馬炎へ勧めたが、司馬炎は「衛公(衛瓘)の娘は美点が5つあり、賈公(賈充)の娘は欠点が5つある。衛氏は賢才で家には子が多く、容貌美しく背が高く、肌は白い。その一方、賈氏は嫉妬深い上に家には子が少なく、容貌醜く背が低く、色が黒い」と述べ、これを認めなかった。だが、その後も楊艶は荀顗・馮紞・荀勗(いずれも賈充の側近)らと共に、盛んに賈南風の美貌と才徳を称えたので、司馬炎は遂にこれを認めた。こうして、賈充もまた長安から呼び戻された。 272年2月、賈南風は正式に太子妃に立てられた。彼女は残虐で嫉妬心が強く権謀を好み、さらには身重の側室を嫉妬心から胎児ごと手に掛けた事すらあった。激怒した司馬炎は賈南風を金墉城に幽閉し、司馬衷との離婚を命じようとした。しかし最初の皇后の楊艶の従妹である楊芷(楊皇后)が再び賈充の功績を理由に取りなし、外戚の楊珧や馮紞・荀勗らも「賈妃(賈南風)はまだ若く、嫉妬心というものは女性の正常な心理でもあります。成長したらきっと改善されることでしょう」と取りなしたので、司馬炎はようやく思いとどまった。この後、楊芷はしばしば賈南風の振る舞いを諫めたが、賈南風は楊芷が自分を助けてくれた事を知らなかったので、逆に司馬炎の前で訓戒を垂れる楊芷を逆恨みするようになった。 司馬衷は暗愚であり、朝臣も民衆も後継に相応しくないと思っていた。そのため和嶠や衛瓘らが遠回しに皇太子廃立を勧めると、司馬炎は東宮の官員を集めて宴を開き、尚書でも解決に苦慮する難題が書かれた文書を見せて「太子に決裁させる」と宣言し、これをもって太子にふさわしいかどうかを見極めようとした。これを聞いた賈南風は部下の張泓に下書きを書かせ、それを司馬衷に手直させたものを司馬炎に提出した。この回答に満足した司馬炎は大いに喜び、皇太子廃立は取りやめとなった。後に、賈充は衛瓘が皇太子廃立を勧めたと知ると、これを大変恨み、賈南風へ「衛瓘の老いぼれが我が家をつぶそうとしおった。いつか奴の一家を滅ぼしてやる」と告げた。賈南風もまた衛瓘に心底恨みを抱いた。
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皇后となるまで
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単父の有力者の呂公(呂文叔平)の娘として生まれた。当時沛県の亭長(宿場役人)だった劉邦が呂公の酒宴に訪れた際に酒宴を仕切っていた蕭何に「進物一万銭」とはったりを書いた劉邦に呂公が感心し、妻の反対を押し切って劉邦に嫁がせ、一男一女(恵帝・魯元公主)をもうけた。この時は劉邦の父の劉太公の農業を助け、懸命に子供たちを育てていた。ちなみに妹の呂嬃は樊噲に嫁いだ。この時、人相を見る老人が呂雉に対し「天下を取られる貴婦人の相がある」と言われ、また秦の始皇帝が「東南のほうに天子の気がある」と言い、始皇帝が巡幸した際に身の危険を感じた劉邦が山奥へ逃げるも、呂雉はすぐに探し当て劉邦が不思議がると呂雉は「あなたのいる所には雲気が立ちこめているので分かるのです」と言ったという。これらが噂となり、劉邦に仕える者が多かったという。 秦末動乱期及び楚漢戦争開始直後は、沛県で劉太公や子供達とともに夫の留守を守っていたようである。 しかし楚漢戦争が激化し、彭城の戦いで劉邦が項羽に敗れると、呂雉は舅・太公とともに楚陣営に捕らえられ人質になってしまう(恵帝と魯元公主は劉邦と合流、関中に逃れることに成功するが、その際に劉邦が子を捨てる騒動が起こっている)。 これ以降の楚漢戦争は、劉邦の配下である韓信らによる楚陣営各国の切り崩しと平定、そして太公と呂雉の身柄の解放が焦点となり、項羽側が有利でありつつも膠着状態に陥った。しかし紀元前203年に入ると、韓信等による楚陣営の切り崩しが成功し、形勢は逆転する。窮地に陥った項羽は劉邦と講和し、呂雉は太公と共に劉邦の元に帰ることを許された。 翌紀元前202年、劉邦は項羽を滅ぼして皇帝となり、呂雉は皇后に立てられた。しかし、まだ政情は劉邦が自ら反乱の討伐に出向かねばならぬほど不安定であり、また宮中では劉邦の後継者を巡り暗闘が始まっていた。このような状況の下で、呂皇后は夫の留守を預かり、紀元前196年に淮陰侯韓信の下僕の密告で、韓信が反乱を企てたことを知り蕭何と計りこれを召し出して処刑する一方、自分の実家の呂氏一族、および張良らの重臣の助けを借りて、皇太子となった劉盈の地位の安定に力を尽くした。
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