皇后となるまでとは? わかりやすく解説

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皇后となるまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:25 UTC 版)

賈南風」の記事における「皇后となるまで」の解説

257年西晋高官である賈充三女として生まれた271年7月涼州禿髪樹機能の乱が起こると、父の賈充長安への慰撫命じられたが、洛陽から離れる事を嫌った賈充この人事を棚上げにするため、娘の賈南風皇太子司馬衷(後の恵帝)の妃とするよう武帝司馬炎勧めた。だが、司馬炎司馬衷の妃として衛瓘の娘を迎えようと考えていたので、これに応じなかった。 11月郭槐賈南風の母)は皇后楊艶楊元后)の侍従賄賂贈り、自らの娘が太子妃になるように裏工作行った。これにより、楊艶賈充晋王朝成立功臣であることをもって賈南風太子妃とするよう司馬炎へ勧めたが、司馬炎は「衛公(衛瓘)の娘は美点5つあり、賈公(賈充)の娘は欠点5つある。衛氏は賢才で家には子が多く容貌美しく背が高く、肌は白い。その一方賈氏嫉妬深い上に家には子が少なく容貌醜く背が低く、色が黒い」と述べ、これを認めなかった。だが、その後楊艶荀顗馮紞荀勗いずれも賈充側近)らと共に盛んに賈南風美貌才徳称えたので、司馬炎遂にこれを認めた。こうして、賈充もまた長安から呼び戻された。 272年2月賈南風正式に太子妃に立てられた。彼女は残虐嫉妬心強く権謀好みさらには身重側室嫉妬心から胎児ごと手に掛けた事すらあった。激怒した司馬炎賈南風金墉城に幽閉し司馬衷との離婚命じようとした。しかし最初皇后楊艶従妹である楊芷楊皇后)が再び賈充功績理由取りなし外戚楊珧馮紞荀勗らも「賈妃(賈南風)はまだ若く嫉妬心というものは女性正常な心理でもあります成長したらきっと改善されることでしょう」と取りなしたので、司馬炎はようやく思いとどまったこの後楊芷はしばし賈南風振る舞い諫めたが、賈南風楊芷自分助けてくれた事を知らなかったので、逆に司馬炎の前で訓戒垂れ楊芷逆恨みするようになった司馬衷暗愚であり、朝臣民衆後継相応しくない思っていた。そのため和嶠や衛瓘らが遠回しに皇太子廃立勧めると、司馬炎東宮官員集めて宴を開き尚書でも解決苦慮する難題書かれ文書見せて太子決裁させる」と宣言しこれをもって太子にふさわしいかどうか見極めようとした。これを聞いた賈南風部下の張泓に下書きを書かせ、それを司馬衷に手直させたものを司馬炎提出した。この回答満足した司馬炎大い喜び皇太子廃立取りやめとなった。後に、賈充衛瓘皇太子廃立勧めたと知ると、これを大変恨み賈南風へ「衛瓘老いぼれ我が家つぶそうとしおった。いつか奴の一家滅ぼしてやる」と告げた賈南風もまた衛瓘心底恨み抱いた

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皇后となるまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:46 UTC 版)

呂雉」の記事における「皇后となるまで」の解説

単父有力者呂公呂文叔平)の娘として生まれた当時沛県の亭長(宿場役人)だった劉邦呂公酒宴訪れた際に酒宴仕切っていた蕭何に「進物一万銭」とはったり書いた劉邦呂公感心し、妻の反対押し切って劉邦に嫁がせ、一男一女恵帝魯元公主)をもうけた。この時は劉邦の父劉太公農業助け懸命に子供たち育てていた。ちなみに妹の呂嬃は樊噲嫁いだ。この時、人相を見る老人呂雉対し天下取られる貴婦人の相がある」と言われ、また秦の始皇帝が「東南のほうに天子気があると言い始皇帝巡幸した際に身の危険感じた劉邦山奥逃げるも、呂雉はすぐに探し当て劉邦不思議がる呂雉は「あなたのいる所には雲気が立ちこめているので分かるのです」と言ったという。これらが噂となり、劉邦仕える者が多かったという。 秦末動乱期及び楚漢戦争開始直後は、沛県劉太公子供達とともに夫の留守守っていたようである。 しかし楚漢戦争激化し彭城の戦い劉邦項羽敗れると、呂雉は舅・太公とともに陣営捕らえられ人質になってしまう(恵帝魯元公主劉邦合流関中逃れることに成功するが、その際劉邦が子を捨て騒動起こっている)。 これ以降楚漢戦争は、劉邦配下である韓信らによる陣営各国切り崩し平定、そして太公呂雉身柄解放焦点となり、項羽側が有利でありつつも膠着状態に陥った。しかし紀元前203年に入ると、韓信等による陣営切り崩し成功し形勢逆転する窮地陥った項羽劉邦講和し、呂雉太公と共に劉邦元に帰ることを許された。 翌紀元前202年劉邦項羽滅ぼして皇帝となり、呂雉皇后立てられた。しかし、まだ政情劉邦が自ら反乱討伐出向ねばならぬほど不安定であり、また宮中では劉邦後継者巡り暗闘始まっていた。このような状況の下で、呂皇后は夫の留守預かり紀元前196年淮陰侯韓信下僕密告で、韓信反乱企てたことを知り蕭何計りこれを召し出して処刑する一方自分実家呂氏一族、および張良らの重臣助け借りて皇太子となった劉盈地位安定に力を尽くした

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