皇后のクーデターとは? わかりやすく解説

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皇后のクーデター

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:23 UTC 版)

エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)」の記事における「皇后のクーデター」の解説

1761年12月25日ロシア暦)/1762年1月5日グレゴリオ暦)にエリザヴェータ女帝死去すると、夫ピョートル皇帝ツァーリ)に即位エカチェリーナ皇后 (ツァリーツァ)(царица)となったピョートル3世プロイセン王フリードリヒ2世信奉者で、皇太子時代からエリザヴェータロシア貴族対立していた。七年戦争では、ロシア軍プロイセン領内侵攻しフリードリヒ2世追い詰めていたにもかかわらずピョートル3世即位後にいきなりプロイセン講和条約結んだことはロシア軍からの不評買ったまた、皇后エカチェリーナ廃し寵姫エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァ皇后据えようとして、彼女の一族であるヴォロンツォフ一門重用した上、ルター派信者だったピョートルロシア正教会にも弾圧加えた。 軍やロシア正教会によるピョートル3世への怨嗟の声は高まりエカチェリーナ待望論が巻き起こるが、愛人関係にあったグリゴリー・オルロフの子供・アレクセイロシア語版)を妊娠中だったエカチェリーナはすぐには動きがとれなかった。エカチェリーナ4月11日ロシア暦)/4月22日グレゴリオ暦)に極秘出産済ませ6月28日ロシア暦)/7月9日(グレゴリオ暦)に近衛軍ロシア正教会支持得てクーデターロシア語版)を敢行した。 この時、エカチェリーナロシア軍伝統緑色軍服男装で自ら馬上指揮取った伝えられ、その凛々しい姿の肖像画残されている。オルロフ兄弟エカテリーナ・ダーシュコワ夫人らの尽力で、近衛連隊始めとする在ペテルブルク主要な軍隊や反ピョートル3世派の貴族ことごとくエカチェリーナ側に付きピョートル3世についた重臣たちもその多くお咎めなし帰参許されたこともあり、クーデターはほぼ無血成功した在位6ヶ月ピョートル3世廃位幽閉され間もなく監視役のアレクセイ・オルロフ(グリゴリーの実兄)に暗殺されたという。公式には、「前帝ピョートル3世持病の痔が悪化して急逝エカチェリーナ2世はこれを深く悼む」と発表されエカチェリーナ2世自身関与否定したが、真相不明である。 エカチェリーナ2世政務執る事では一致したものの、ロマノフ家血統でないエカチェリーナ女帝即位には疑問の声もあり、嗣子パーヴェル即位させてエカチェリーナ摂政に、という案もあったが、結局はエカチェリーナ自身正式に女帝として即位することとなり、1762年9月22日ロシア暦)/10月3日グレゴリオ暦)にモスクワ・クレムリンのウスペンスキー大聖堂戴冠式行った

※この「皇后のクーデター」の解説は、「エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)」の解説の一部です。
「皇后のクーデター」を含む「エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)」の記事については、「エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)」の概要を参照ください。

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