皇后への暴言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 08:52 UTC 版)
允恭天皇2年(推定413年)、忍坂大中姫(おしさか の おおなかつひめ)が皇后となり、名代部として、「刑部」(おしさかべ)が制定された。皇后がまだ未婚だった時代、一人で苑で遊んでいた折に、 時に闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)、傍(ほとり)の径(みち)より行(あり)く。馬に乗りて籬(まがき)に莅(のぞ)みて、皇后に謂(かた)りて、嘲りて曰はく、「能くソノを作るや、汝(なびと)」といふ。且(また)曰はく、「圧乞(いで)、戸母(とじ)、其の蘭(あららぎ)一茎(ひともと)」といふ。 (そのとき闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)が側の小道を通り、馬に乗って垣根越しに語りかけて、嘲っていうのには「うまく庭を作れるのかね、あんた」と言った。また言ったことには、「さあ、刀自(とじ)、そこの野蒜(のびる)を一本」と言った。 『日本書紀』でこの闘鶏国造の名は記されないが、大山主命の子・角古君のこととされている(『異本阿蘇氏系図』)。このあと、数々のぞんざいな応対があり、皇后は、 「首(おびと)や、余(あれ)、忘れじ」(お前、私は忘れまいよ) とおっしゃった。皇后になった忍坂大中姫は、馬にのって「蘭」(あららぎ)を求めたものを捜し当て、昔日の罪を責めて殺そうと思ったが、 「臣(やっこ)が罪、実に死(しぬる)に当れり。然れども其の日に当りては、貴(かしこ)き者(ひと)にましまさむといふことを知りたてまつらず」(約:私の罪はまことに死罪に当ります。けれども、そのときには、貴いお方になられようとは知りませんでした) と弁解したので、皇后は死刑を赦して、姓をおとして稲置にした。
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