皇后時代とは? わかりやすく解説

皇后時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/02 21:26 UTC 版)

劉皇后 (石虎)」の記事における「皇后時代」の解説

349年4月石虎の病が篤くなると、張豺石斌石遵の3名が石世の輔政を託された。だが、劉皇后石斌石遵政変起こすではないか恐れ張豺と共に石斌らの排除目論んだ。この時、石斌襄国におり、石虎重病であることを知らなかったので、劉皇后らは彼を欺こうとして使者派遣して主上石虎)の病は次第快方向かっております。王(石斌)は猟でも嗜みながらしばし留まってはいかがでしょう」と伝えさせた。石斌はもともと猟を好んで酒を嗜む性質であったので、これを聞いて安心しきり、酒宴狩猟耽るようになった劉皇后らは詔を矯め石斌には忠孝の心がないとして、官を辞して邸宅謹慎するよう命じた。さらに、張豺の弟である張雄強兵500人を与えると、石斌宅を監視させた。 ある時、石虎一時的に体調恢復したので西閤へ出ると、200余りの龍騰中郎(皇帝身辺を守る兵士)が列をなして石虎拝した石虎が「何だね」と問うと、彼らは「聖体石虎の体)が安んじられておりませんので、燕王石斌)を宿衛宮廷守備する者)として迎え入れ兵馬指揮させられますよう」と要請した。またある者は「燕王皇太子とすることを乞います」と懇願し劉皇后張豺排斥目論んだ。これを受け、石虎は「燕王宮殿内居ないのか。召し出せ!」と命じたが、石虎の側にいる重臣はみな劉皇后の息がかかっていたので「王(石斌)は酒に耽っておられ、入朝出来ません」と答えた。すると石虎は「輦(天子の車)を出して迎えさせればいだろう」と命じたが、彼らは遂に実行する事は無く、やがて石虎立ち眩みがして宮殿戻ってしまった。その後劉皇后らは再び詔を矯め張雄命じて石斌殺害させた。 石遵もまた父の危篤知って幽州から鄴へ到来したが、劉皇后らは石虎に会うことを禁じ朝堂押し留めた。そして、石遵禁兵3与えると、石虎の命と偽ってすぐさま関中赴任するよう命じた石遵命令に背くわけにもいかず、涕泣して鄴を去るしかなかった。この日、石虎は病が少し良くなったので、近臣へ「遵(石遵)はまだ来ないかね」と問うたが、みな劉皇后の息がかかっていたので 「既に出立されて久しいです」と言うのみであった石虎嘆息して「これに会えないのが恨めしい!」と言ったという。 その後劉皇后はまたも詔を矯めて張豺太保都督中外諸軍事・録尚書事任じた。これらは霍光故事にならうものであった彼女ら横暴な振る舞い目の当たりにした侍中徐統は「まさに乱が始まるであろう。我はこれには預からぬ」と嘆き毒薬飲んで自殺したという。

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皇后時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:20 UTC 版)

貞明皇后」の記事における「皇后時代」の解説

1912年明治45年大正元年7月30日義父明治天皇崩御に伴う、夫・嘉仁親王皇位継承践祚)により皇后となる。3年後1915年大正4年11月10日京都御所にて御大典が行なわれたが、皇后は第4子(澄宮、のち三笠宮)を懐妊中のため欠席した1915年大正4年12月2日第四男子第四子/末子澄宮崇仁親王(のちの三笠宮)を出産昭憲皇太后後継者として、蚕糸・絹業を奨励し自身養蚕皇后御親)に取り組んだ救癩事業ハンセン病)に尽くし灯台守支援したことでも知られる皇室神道祭祀しきたり伝統大切にした一方で野口幽香後閑菊野など近代女子教育研究家相談相手宮中招いた日本赤十字社により、1920年大正9年7月第1次ポーランド孤児救済が、1922年大正11年8月第2次ポーランド孤児救済それぞれ行われた。この活動によって約800名のポーランド孤児祖国へ帰還果たした皇后は4回、見舞金下賜している。また実際に単独公務として日本国内施設収容されポーランド孤児たち慰問するなどもした。 華族女学校時代恩師である石井筆子と、その夫の石井亮一経営する滝乃川学園日本最初知的障害者施設)を物心両面から支援し、それは生涯にわたって続いた1921年大正10年)に、滝乃川学園園児失火から火災起こし施設焼失し園児にも死者出たことから、事業の継続一時断念した石井夫妻に、内旨下賜金を贈り再起促したのも皇后尽力であった。そのため、学園では、創立者石井亮一筆子夫妻理事長渋沢栄一加え貞明皇后を「学園中興の母」として語り継ぎ今なお崇敬している。 大正天皇が病に陥り、執務不全後は夫の天皇代わり皇室取り仕切り宮内大臣牧野伸顕元老など重臣たちと渉り合った1923年大正12年9月15日関東大震災被災者慰問日本皇后が(単独公務で)被災慰問をする初のケースであった1926年大正15年昭和元年12月25日午前1時25分、皇后の手厚い看護空しく療養中大正天皇葉山御用邸崩御摂政務めていた皇太子裕仁親王昭和天皇)の皇位継承および皇太子妃良子香淳皇后)の立后に伴い皇太后となる。大正天皇臨終の際には、妻の貞明皇后意向で、生母柳原愛子を傍に居させた。

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皇后時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:31 UTC 版)

上皇后美智子」の記事における「皇后時代」の解説

1989年昭和64年1月7日義父昭和天皇崩御し夫の明仁親王即位に伴い皇太后となった姑の香淳皇后引き継ぎ立后する。即位立后後の記者会見においては皇太子となり東宮仮御所にて独立する長男徳仁親王について「時たまでよろしいから、ヴィオラを聴かせにいらしてくださると、うれしいと思います」とのコメント発している。 1993年平成5年10月20日、満59歳誕生日赤坂御所にて倒れる。 同年の『宝島301993年8月号には「皇室危機-『カーテン』の内側からの証言」として、「宮内庁職員大内糺」を称する人物による記事掲載されていた。 島田雅彦のまとめによればその中で大内名乗る人物は、天皇夫妻昭和天皇香淳皇后比して、「華美西洋風な生活を送り神道よりもキリスト教親和性高く(元々、皇后学習院ではなくミッション系大学出でもあることから)、国民の望む皇室主としてふさわしくない」という批判をし、それを皮切りに週刊文春』などにも平成皇后対すバッシング記事掲載された。宮中最高権力者一人となった皇后への、守旧派の「最後反撃」と国民の「漠たる反感」が背景とされるこのため皇后精神的な苦痛から失声症となった。これに対し宝島社および文藝春秋関係者宅に何者かが銃弾撃ち込む騒動起き、このショック皇后宮中祭祀熱心に行ったことで事態沈静化したが、前代とは違う形の菊タブー明らかになったとされる翌年回復し「どの批判も、自分省みるよすがとしていますが、事実でない報道まかり通る社会になって欲しくありません」とのコメント発表している。 1994年平成6年10月20日還暦迎える。 1995年平成7年1月31日天皇と共に夫妻兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災発生後兵庫県神戸市見舞い行幸啓)、同市長田区の菅原市場その日皇居から自ら切って持参した黄色と白の水仙供えた。この水仙関係者によって永久保存処置取られ、同市布ハーブ園内で展示されている。被災地避難所訪問し被災者一人一人に声をかけ、時には手を握り時には抱きしめて被災者労をねぎらう様子大きな反響を呼ぶ。また、一人病身被災者のために自ら布団敷いた1998年平成10年)、インド・ニューデリーで開催された「国際児童図書評議会IBBY)」に際してビデオによる講演行い日本神話触れ日本武尊の妃弟橘比売吾妻における入水物語など引いて成婚以来胸中語った2002年平成14年)、IBBY本部があるスイス・バーゼルで開催されたIBBY50周年記念大会に、IBBY名誉総裁として出席し祝辞述べた。これが唯一の単独での海外公務となっている。 2002年平成14年10月20日皇后の満68歳誕生日際し宮内記者会質問対す文書ご回答で、次のように北朝鮮による日本人拉致問題についてコメントした。「小泉総理北朝鮮訪問により、一連の拉致事件関し初め真相一部報道され驚き悲しみとともに無念さ覚えます。なぜ私たち皆が、自分たち共同社会出来事として、この人々の不在もっと強く意識し続けることができなかったかとの思いを消すことができません。今回帰国者と家族との再会喜び思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々家族気持ち察するにあまりあり、その一入ひとしお)の淋しさ思います。」 2005年平成17年10月20日清子内親王降嫁前の記者会見では子供たち対す思い語り徳仁親王優しく、よく励まし言葉をかけてくれたこと、文仁親王細心な心配り忘れない一方で自分真実見失わないようにも注意していたということ清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆感じたこと、清子内親王おおらかのどかな性格など回想しつつ語った婚礼の朝には、民間降嫁する愛娘気遣い抱きしめて励ましたという。 2007年平成19年)、体調崩し腸壁から出血ストレス性のものと診断された。通常の公務並行して療養した結果病状回復した発表された。同年5月21日からは、天皇とともに欧州訪問の途についている8月8日には須崎御用邸での静養中止し天皇とともに新潟県中越沖地震被災地を訪問しかしながら2008年平成20年)で皇后74歳高齢となり、健康上の理由から公務軽減検討された。 2011年平成23年3月30日天皇とともに夫妻で、同年3月11日発生東北地方太平洋沖地震による東日本大震災被災者290人が避難している東京武道館東京都足立区)を訪問し行幸啓)、膝をつきながら、一人ひとりを親しく激励した2015年平成27年7月29日皇后6月末ごろから胸の痛み訴え、その頻度が週に数回程度から徐々に増えてきたため、同月24日24時間心電図検査受けたその結果心臓の筋肉血流不足する心筋虚血を疑う所見がみられたという。宮内庁29日心筋虚血疑いがあるため、同年8月9日に、東京大学病院精密検査受診する発表した同病院で冠動脈の状態をCT検査確認し治療を受け、以後体調安定している。

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皇后時代(平成)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:31 UTC 版)

上皇后美智子」の記事における「皇后時代(平成)」の解説

平成初めての大会にあたり1947年昭和22年以来42年長い年月わたって名誉総裁責務をお果たしになった皇太后陛下に、わたくしどもの深い感謝をお奉げしたいと思います」 - 1989年平成元年5月31日平成元年全国赤十字大会にて。 「皇室時代と共に存在し、各時代伝統継承しつつも変化しつつ、今日至っていると思います。この変化尺度量れるのは、皇位の継承連なる方であり、配偶者家族であってならない考えてます。伝統それぞれの時代に息づいて存在し続けるよう、各時代天皇願われ御心をくだいていらしたのではないでしょうか。きっと、どの時代にも新しい風があり、またどの時代新しい風も、それに先立つ時代なしには生まれ得なかったのではないか感じています」「(皇室観について)私の目指す皇室観というものはありません。ただ、陛下お側にあって全て善かれ祈り続ける者でありたい願っています」 - 以上、1994年平成6年10月20日還暦文書回答にて、「皇后美智子天皇とともに皇室新風吹き込んだ」という指摘に対して。 「国民叡智がよき判断下し国民意志がよきことを志向するよう祈り続けていることが、皇室存在意義役割示しているのではないか考えます」 - 1995年平成7年10月20日誕生日文書回答にて 「常に国民関心対象となっているというよりも、国の大切な折々に、この国に皇室があってよかったと、国民心から安堵し喜ぶことのできる皇室ありたい思っています」 - 1996年平成8年10月20日誕生日文書回答にて。 「不思議な波が、私たちの少し前で何回かとまり、左手の子供たちが、心配そうにこちらを見ておりましたので、どうかしてこれをつなげなければ思い陛下お許しいただいて加わりました」 - 1998年平成10年10月20日誕生日文書回答にて、長野パラリンピックでのウェーブ参加に関して。 「どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり(中略先の時代を歩まれた皇后様方のお上思いつつ、私にも時の変化耐える力と、変化の中で判断誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈ってます。これから女性皇族何を望むかという質問ですが、人は皆個性持っていることであり、どなたに対して類型的な皇族像を求めるべきではないと思います」 - 2002年平成14年10月20日誕生日文書回答にて。 「清子は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしているときに、まずそばに来てドンマーインと、のどかに言ってくれる子どもでした」 - 2005年平成17年10月20日誕生日文書回答にて、数日後控えた清子内親王降嫁前に。 「東宮妃の公務復帰については、専門医診断仰ぎながら、妃自身が一番安心できる時を待って行われること大切だ思います。あせることなく、しかし、その日が必ず来ることに希望をもって東宮妃も、また東宮も、それまで日々自分大切にして過ごしてほしいと祈っています」 - 2006年平成18年10月20日誕生日文書回答にて 「(かくれみの用いて混雑する駅の構内スイスイと歩く練習をし、その後学生のころよく通った神田神保町古本屋さんに行きもう一度長い時間をかけて本の立ち読みをしてみたいと思います」 - 2007年平成19年5月14日欧州諸国歴訪前の記者会見にて、「身分隠し好きなところで一日を過ごすとしたら」という問い対し。 「皇太子妃健康についての質問ですが(中略)妃は皇太子にとり、また、私ども家族にとり、大切な人であり、『妃の快復祈り見守り支えていきたい』という、私の以前言葉変わりはありません」 「このごろ愛子一緒にいて、もしかしたら愛子と私は物事事柄おかしさ感じ方割合似ているのかもしれないと思うことがあります周囲の人のちょっとした言葉の表現や、話している語の響きなど、『これは面白がっているな』と思ってそっと見ると、あちらも笑い含んだ目をこちらに向けていて、そのようなとき、とても幸せ気持ちなります思い出してみると、眞子佳子小さかったころにも、同じようなことが、たびたびありました」 - 2008年平成20年10月20日誕生日文書回答にて。 「このたびも私はやはり感謝状を、何かこれだけでは足りないような気持ちいたしますが、心を込めて感謝状をお贈り申し上げます」 - 2009年平成21年4月8日結婚50周年記者会見にて。先の25周年記者会見での発言をふまえ 「東宮秋篠宮も孫として昭和天皇のおそばで過ごす機会をたびたびにいただき、また成人となってからは、陛下お助けするなかでそのお考え触れ日々のお過ごしようをつぶさに拝見しそれぞれの立場への自覚深めてきたことと思いますこれから二人お互い尊重しつつ、補い合って道を歩み家族心を合わせてそれを支えていってくれることを信じ皇室将来を、これから世代人々の手ゆだねたいと思います」 - 2009年平成21年11月11日天皇即位20年際する記者会見にて 「これがミクちゃんですか」 - 2013年平成25年8月20日六本木ヒルズ森美術館でのLOVE展にて 「80年前、私に生を与えてくれた両親はすでに世を去り、私は母の生きた齢(とし)を越えました嫁ぐ朝の母の無言抱擁思い出とともに、同じ朝『陛下殿下御心に添って生きるように』と諭してくれた父の言葉は、私にとり常に励ましであり指針でした。これからもそうあり続けることと思います」 - 2014年平成26年10月20日皇后誕生日際し80年傘寿迎えて

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皇后時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:06 UTC 版)

皇后雅子」の記事における「皇后時代」の解説

2019年平成31年4月30日天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく代替わり義父第125代天皇明仁退位する。 翌2019年令和元年5月1日に夫の皇太子徳仁親王皇位継承して第126代天皇即位したこれに伴い義母皇后美智子上皇后となって自身立后した。同日皇居正殿松の間での「即位後朝見の儀」に出席した同年5月22日東京都渋谷区明治神宮会館開催された「令和元年全国赤十字大会」に日本赤十字社新名総裁として、同名副総裁文仁親王妃紀子皇嗣妃)、正仁親王妃華子寬仁親王妃信子憲仁親王妃久子と共に出席した皇后雅子同役職を、退任した上皇后美智子から引継いだ同年8月7日東京都港区東京プリンスホテルにて行われた第47回フローレンス・ナイチンゲール記章授与式」に日本赤十字社名誉総裁として、名誉副総裁文仁親王妃紀子皇嗣妃)、正仁親王妃華子寬仁親王妃信子憲仁親王妃久子と共に臨席し、2名の同記章受章者への記章授与行った日本における子供の貧困率の高さ(約14%と、先進国中でも特に高い)に強い関心憂慮を持つ事に加え皇后雅子2018年平成30年)に「最近国内では子供虐待子供の貧困など、困難な状況置かれている子供たちについてのニュース増えているように感じており、胸が痛みます世界目を向けても、内戦紛争影響が、特に子供始めとする弱い立場人々大きく及んでいる現状深く憂慮しております」と述べ新型コロナ流行影響経済的に深刻化してきた2020年令和2年4月徳仁は「子供の未来応援基金」に「お手元金」と呼ばれる天皇家私的財産から出され5000万円寄付した。 その他、夫天皇との夫妻での公務等の活動歴については、主に「徳仁#天皇時代」を参照2020年令和2年11月8日立皇嗣の礼の「朝見の儀」で、「この度の御儀が滞りなく行われましたことを喜ばしく思います。どうぞこれからもお健やかにお務め果たされますように」と、公式行事としては17年ぶりにテレビ通じ肉声発した2020年令和2年12月9日57歳誕生日際し文章発表新型コロナウイルス禍見舞われ1年を「大変に心の痛む年でした」と振り返り、「困難に見舞われている人々に手を差し伸べつつ、力を合わせてこの試練乗り越えていくことができますよう、心から願っております」とつづった2021年令和3年1月1日新型コロナウイルスの感染拡大に伴い新年一般参賀中止となったため、それに代わるビデオメッセージが公開された。これには天皇徳仁だけでなく、皇后雅子のことばも収録されており、「この1年多くの方が本当に大変な思いをされてきたことと思います今年が、皆様にとって少しでも穏やかな年となるよう心からお祈りいたしますまた、この冬は、早くから各地厳し寒さ大雪見舞われています。どうぞ皆様くれぐれもお体を大切に過ごしいただきますように。」と述べた一般国民向けて17年ぶりの肉声となったまた、同日行われた新年祝賀の儀」ではコロナ禍での国民状況鑑みティアラ着用控えた

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皇后時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:06 UTC 版)

皇后雅子」の記事における「皇后時代」の解説

「(中略5月1日天皇陛下ご即位以降ご即位に伴う一連の行事陛下ご無事にお済ませになり、私も、陛下お力添え頂きながら、一つ一つ行事無事にご一緒させていただくことができましたことに安堵し嬉しく思っております上皇上皇后両陛下には、ご在位中から、陛下ご即位関連行事始めお代替わり円滑にむようにとのお心遣いお導き賜りましたことに深く感謝申し上げますまた、様々な行事準備ご尽力いただいた方々厚く御礼申し上げます。」 「天皇陛下ご即位以来5月皇居での一般参賀や、11月国民祭典祝賀御列の儀などの折に、多く国民皆様から、思いがけないほど本当に温かいお祝い頂きましたことに、心から感謝しておりますまた、この7か月の間に、地方への訪問都内での行事など通して国民皆様接する中で、多く方々から温かいお気持ち寄せていただいたことを嬉しく、またありがたく思いながら過ごしてまいりました日本国内各地出会った沢山の笑顔は、私にとりましてかけがえのない思い出として心に残りこれから歩み進めていく上で大きな支えになってくれるものと思います。」 「同時にこのような国民皆様温かいお気持ちは、平成御代の間、上皇上皇后両陛下国民苦楽を共にされながら、長きわたって国民寄り添われご立派お務め果たされことによるところが大きいものと深く感謝しております。そして、これから日々陛下ご一緒に、国民皆様幸せを常に願いながら、寄り添っていくことができましたらという思い新たにしてまいりました。」 「(中略天皇陛下には、ご即位されて以来皇居宮殿での儀式などにとてもお忙しい毎日をお過ごしいらっしゃいます。顧みますと、上皇陛下には、80半ば迎えられていた今年4月まで、このように重いご公務毎年欠かさずお務めになっていらっしゃいましたことに深い敬意の念新たにいたしますまた、上皇后陛下には、平成御代の間、皇后としてお務め果たされながら、上皇陛下を常にお傍でお助けになり、上皇陛下お力になってこられました。上皇后陛下には、今年手術をお受けになり、ご案じ申し上げましたが、上皇上皇后両陛下には、これからくれぐれもお体を大切になさり、永くお元気にお過ごしなりますよう、心よりお祈り申し上げます。そして、ご譲位後私たち歩み温かく見守りいただいてきましたことに深く感謝申し上げます。」 「天皇陛下には、お忙しい中でもいつも私の体調お気遣い下さいますことに心より感謝申し上げます。私も、天皇陛下お務め重さを常に心にとどめ、陛下をお傍でお助けできますように健康の一層の快復努めながら、皇后として務め果たし陛下ご一緒に、国民幸せに力を尽くしていくことができますよう努力していりたい思っております。この機会に、特に今年国民皆様からお寄せいただいた格別温かい祝福お気持ちに、重ねまして厚く御礼申し上げます。」2019年令和元年12月9日自身皇后として迎え初めての誕生日地久節56歳に際して感想

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