誕生から成婚、皇后時代
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「昭憲皇太后」の記事における「誕生から成婚、皇后時代」の解説
嘉永2年(1849年)4月17日、従一位左大臣・一条忠香の三女として誕生。生母は側室の新畑民子。右大臣・一条実良(1835-1868年)の妹。徳川慶喜の婚約者であった千代君、疱瘡のため千代君に代わって慶喜に嫁いだ美賀子とは、義理の姉妹にあたる。 当初の名前は勝子(まさこ)。通称は富貴君(ふきぎみ)、富美君(ふみぎみ)など。安政5年(1858年)6月、皇女富貴宮の諱を避けるため、寿栄君(すえぎみ)と改名した。 慶応3年6月28日(1867年7月29日)、新帝明治天皇(第122代天皇)の女御に治定。伏見宮家の縁故で、女流漢学者で勤王論者の若江薫子が家庭教師として忠香の娘たちの養育に携わっていたが、「女御を一条家から出すのに際し、薫子は姉を差し置いて妹の寿栄君を推薦した」と言われている。 明治元年12月26日(1869年2月7日)、美子(はるこ)と改名し、従三位に叙位。同月28日(1869年2月9日)入内して次のような女御の宣下を蒙り、即日、皇后に立てられた。 「一条美子女御宣下 女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)」 從三位藤原朝臣美子右中辨藤原朝臣長邦傳宣權中納言藤原朝臣公正宣奉 勅宜爲女御者明治元年十二月二十八日 中務少輔輔世奉 ―宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料(后妃4)』吉川弘文館所収 (訓読文)従三位藤原朝臣美子(一条美=はる子 20歳)右中弁藤原朝臣長邦(葉室長邦 30歳 従四位下)伝へ宣(の)り、権中納言藤原朝臣公正(清水谷公正 60歳 正三位)宣(の)る、勅(みことのり 明治天皇 17歳)を奉(うけたまは)るに、宜しく女御と為すべし者(てへり)、明治元年(1868年)12月28日 中務少輔兼左大史小槻(壬生 58歳 正四位上)宿禰輔世奉(うけたまは)る、 この際、天皇より3歳年長であることを忌避して、公式には嘉永3年(1850年)の出生とされた。当初、中世以来の慣行に従って中宮職を付置され、中宮と称されたが、翌年、中宮職が皇后宮職に改められ、称号も皇后宮(こうごうぐう)と改められた。この時を最後に、中宮職は廃止され、中宮の称号も絶えた。
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