米英戦争
1812年戦争(米英戦争)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 09:07 UTC 版)
「英米関係」の記事における「1812年戦争(米英戦争)」の解説
「米英戦争」および「米英戦争の原因」も参照 ナポレオン戦争中にイギリスがフランスを封鎖し、中立の商船の臨検及び捜索に関与したことに対する報復として、アメリカ合衆国は通商禁止法で貿易を禁止し、その結果アメリカとフランスの間の貿易が抑制された。また、イギリス海軍はアメリカの船舶に乗り込んできて、イギリスの脱艦者であるとの疑いをかけて水夫らを強制徴募した。イギリスの工作員から軍用品と援助を与えられたインディアンの部族により、アメリカ中西部(オハイオからウィスコンシン)へのアメリカ領土拡大は阻まれた。実際イギリスの目標は、アメリカの領土拡大を阻止するためにインディアンの独立国を造ることであった。 外交と排斥運動が失敗に終わると、国家の名誉と独立の問題が表面化した。ブランズは「他の戦争タカ派は、このイギリスとの戦いを第二次独立戦争だと発言した。最初の独立戦争での傷跡がまだ残るアンドリュー・ジャクソンは特別な確信をもってその見解を抱いていた。近づいてくる紛争はアメリカの権利侵害に関わるものだったが、それはまたアメリカというアイデンティティの証明にもなった」と述べている。 1812年6月にはついにジェームズ・マディソン大統領が開戦を求め、北東部の実業家たちの抵抗に打ち勝った。このアメリカの戦略は、イギリスの海運業(特に西インド諸島にあるイギリスの砂糖農園への食料品の輸送を断つこと)に対して、開戦を求めるものであった。後にカナダとなる北部の植民地の征服は、アメリカ側の取引上の立場を有利にすることを意図した戦術であった。対するイギリスの主たる目標はナポレオン戦争でフランスを倒すことにあったため、1814年にそのようになるまでは、アメリカとの戦争では主として防御的であった。テカムセに率いられたアメリカ先住民との同盟を結ぶため、イギリスはアメリカ合衆国が領有権を主張していた領土内にインディアン独立国を創設することを約束した。イギリス軍と英領北アメリカ(現カナダ、オンタリオ州)軍はアメリカ軍よる侵攻を幾度も撃退した、これは米軍の準備が不十分で引率力も乏しく、民兵部隊もその司令官が連邦政府の管理下に置かれることを拒んだことで活用できずに弱体化したためである。にもかかわらず、アメリカ軍は1813年にエリー湖を支配下におさめ、北西部と南部でイギリスと同盟を組んだアメリカ先住民の勢力を滅ぼした。1814年におけるチェサピーク湾へのイギリス軍侵攻は「ワシントン焼き討ち」にまで至るも、それに続くボルティモアへの攻撃は撃退された。イギリス軍は1814年にニューヨーク州に侵攻したが、プラッツバーグの戦いで敗れ、ルイジアナ侵攻では、アンドリュー・ジャクソン将軍に停戦を求める知らせが届く前に、1815年のニューオーリンズの戦いで決定的に敗北した。終戦交渉は1814年に始まり「戦争前の原状(status quo ante bellum)」を回復するガン条約が締結された。双方とも領土獲得はなく、アメリカ先住民の独立国家を創設するというイギリスの計画は断念された。イギリスは名目上、(海軍の)強制徴募の権利を保ったが、実質的には水夫の強制徴募を停止し、アメリカもこれを最後にこの問題を取り下げた。アメリカは「第二次独立戦争」に勝利した結果を祝った。イギリスは最終的にワーテルローの戦いでナポレオンを倒した勝利の喜びを祝い、アメリカとの戦争のことの多くは忘れてしまった。アメリカとカナダの間の緊張状態は外交を通して解決された。1812年の米英戦争は、長きにわたる紛争期間(1775年-1815年)の終わりを示すものとなり、両国間を新たな平和の時代へと導いた。
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