1813年 - 1815年
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「フランツ・シューベルト」の記事における「1813年 - 1815年」の解説
1813年の終わりにシューベルトは、変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったためコンヴィクトを去り、兵役を避けるために父の学校に教師として就職した。このころ、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚した。彼は2年以上この仕事に就いていたが、あまり関心を持てなかったようで、その代償を別の興味で補った。サリエリから個人的な指導を受けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難してシューベルトを悩ませた。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。またシューベルトはグロープ一家と親密に交際しており、その家の娘テレーゼは歌がうまくよい友人だった。彼は時間があれば素早く大量に作曲をした。完成された最初のオペラ『悪魔の悦楽城』(D84)と、最初の『ミサ曲ヘ長調』(D105)はともに1814年に書かれ、同じ年に『弦楽四重奏曲』3曲(D46、D74、D87)、数多くの短い器楽曲、『交響曲ニ長調』(D82)の第1楽章、『潜水者』(D77)や『糸を紡ぐグレートヒェン』(D118)といった傑作を含む7つの歌曲が書かれた。 1815年には、学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、多くの作品を生み出した。『交響曲第2番変ロ長調』(D125)が完成し、『交響曲第3番ニ長調』(D200)もそれに続いた。また、『ト長調』(D167)と『変ロ長調』(D324)の2つのミサ曲(前者は6日間で書き上げられた)、その他『ミサ曲ヘ長調』のための新しい『ドナ・ノビス』(D185)、『悲しみの聖母』(D383)、『サルヴェ・レジナ』(D379)、オペラは『4年間の歩哨兵勤務』(Der Vierjahrige Posten、D190)、『フェルナンド』(D220)、『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ』(D239)、『アドラスト』(D137、研究により1819年の作曲と推定)、『バイデ・フロインデ・フォン・サラマンカ(サラマンカの友人たち)』(D326、会話の部分が失われている)の5曲が作曲された。他に『弦楽四重奏ト短調』(D173)、『ピアノのための4つのソナタ』(D157、D279、D459)、数曲のピアノ小品がある。これらの最盛期をなすのは146の歌曲で、中にはかなり長い曲もあり、また8曲は10月15日、7曲は10月19日の日付がある。 1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人ヨハン・マイアホーファー(英語版)(1787年 - 1836年)と知り合った。この出会いは間もなく温かで親密な友人関係に熟していった。2人の性質はかなり違っていた。シューベルトは明るく開放的で少々鬱のときもあったが、突然の燃えるような精神的高揚もあった。一方マイアホーファーは厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男性だった。2人の関係は、シューベルトに対して一方的に奉仕するものだったという。
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1813年 - 1815年
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「大陸軍 (フランス)」の記事における「1813年 - 1815年」の解説
ロシアにおける壊滅的損害はドイツやオーストリアの反仏感情を高めることになった。第六次対仏大同盟が結成され、ドイツが次の方面作戦の中心となった。培われた才能によってナポレオンはすぐさま新しい軍隊を立ち上げ戦端を開き、リュッツェンの戦いとバウツェンの戦いで連勝した。しかしロシア遠征のためにフランス軍の騎兵の質が落ちていたこと、また部下の将軍の計算違いにより、これらの勝利は決定的に戦争を終わらせるだけのものにならず、休戦になっただけだった。ナポレオンはこの休戦期間を利用して彼の軍隊の質と量を高めようとしたが、オーストリアが同盟に参加したとき、彼の戦略的立場は苦しいものになった。8月に再び戦争が始まり、2日間のドレスデンの戦いでフランスは意味のある勝利を収めた。しかし、ナポレオンとの直接対決を避け、彼の部下に矛先を向けるという同盟側のトラチェンブルク計画(英語版)の採用により、フランスはカッツバッハの戦い、クルムの戦い、グロスベーレンの戦い、デネヴィッツの戦い(英語版)と負け続けた。 同盟軍は数を増し、フランス軍をライプツィヒで包囲した。有名な3日間の諸国民の戦いが行われ、橋が時期尚早に壊されたために、エルスター川の対岸に30,000名のフランス兵を置き去りにするというナポレオンにとって大きな損失を被った。しかしこの作戦は、ハナウの戦い(英語版)でフランス軍の撤退を阻止しようとして孤立したバイエルン軍をフランス軍が破ったとき、勝利の意味合いで終りを告げた。 「大帝国はもはやない。守らねばならないのはフランス自体だ。」とナポレオンは1813年の暮れに議会に向かって語った。ナポレオンはなんとか新しい軍隊を結成したが、戦略的には事実上希望のない位置にまで来ていた。同盟軍はピレネー山脈から、北イタリア平原を横切り、さらにフランスの東部国境を越えて侵略してきた。この作戦はナポレオンがラ・ロシエールの戦い(英語版)で敗北を喫したときに始まったが、彼は以前の精神をすぐに取り戻した。1814年の六日間の戦役で30,000名のフランス軍がゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルの散会した軍団に20,000名の損害を与えた。この時のフランス軍の被害は2,000名であった。フランス軍は南に向かい、カール・フィリップ・ツー・シュヴァルツェンベルク(英語版)をモントローの戦い(英語版)で破った。しかし、これらの勝利は事態を改善するまでには至らず、ラン(Laon)の戦いとアルシス=シュル=アウベの戦い(英語版)でのフランス軍の敗北が士気を落としてしまった。3月の末、パリの戦い(英語版)で同盟軍に破れた。ナポレオンは戦い続けることを望んだが、彼の部下達はそれを拒み、1814年4月4日、皇帝に退位を迫り認めさせた。 1815年2月エルバ島から帰還するとナポレオンは、彼の帝国を守るための新たな活動に忙殺された。1812年以来初めて来るべき戦いで彼が指揮を執る北部軍(L'Armee du Nord)は職業軍人の集団であり能力が高かった。ナポレオンはロシアやオーストリアが来る前に、ベルギーにいるウェリントンやブリュッヘルの同盟軍に会し打ち破ることを試みた。1815年6月15日に始まった作戦は当初は成功だった。6月16日にはリニーの戦いでプロイセン軍を破った。しかし、慣れない部下の作業やまずい指揮により全作戦を通じてフランス軍に多くの問題を引き起こした。エマニュエル・ド・グルーシーが対プロイセン戦で遅れて進軍したことで、リニーで敗れたブリュッヘルの部隊が回復し、ワーテルローの戦いでウェリントンの援軍に駆けつけることを許した。この戦いはナポレオンと彼の愛した軍隊にとって最後で決定的な敗北となった。
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