1813年の動きとは? わかりやすく解説

1813年の動き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 15:35 UTC 版)

オンタリオ湖での戦闘」の記事における「1813年の動き」の解説

氷が溶けたとき、チョウンシーの方が艦船数でも兵員数でも優勢だったアメリカ軍北部方面軍司令官ヘンリー・ディアボーン将軍と共にイギリス本国水兵士官カナダ渡ってセントローレンス川遡ってくる前に敵軍打撃与え機会があった。キングストンへの攻撃できれば決定的なのだったが、二人ともそこには5,000名のイギリス軍正規兵が守っていると思いこんだ(実際に600名に過ぎなかった)。その代わりアッパー・カナダ首都ヨーク攻撃した4月27日ヨークの戦いで、ロジャー・ヘイル・シーフ少将勢力で劣る部隊破り、町を略奪したブリッグのデューク・オブ・グロスターを捕獲しエリー湖イギリス戦隊送られるはずだった大砲数門も捕獲した。これは後にエリー湖の湖上戦アメリカ海軍勝利する伏線になったイギリス軍は、まだ完成していなかったコルベットアイザック・ブロックがアメリカ軍の手落ちないよう、退却前に火を付けたチョウンシーディアボーンは続く5月27日ジョージ砦の戦いで、ナイアガラ川沿いにいたイギリス軍破ったヨークでもジョージでも、チョウンシースクーナー砲艦ジョージ砦ではオリバー・ハザード・ペリー指揮していた)が、イギリス軍砲台抑えアメリカ軍の上陸阻止しようとするイギリス軍部隊大きな損失与えることで、船から上陸する陸軍支援に非常に有効であることが分かったアメリカ軍指揮官達は敵からの決定的な反撃に対して脆弱なままだった。オンタリオ湖西端占領に関わっている間に、ヨーイギリス海軍465名の水兵士官伴ってキングストン到着しイギリス戦隊指揮官着任した公用軍隊事情でたまたまキングストンにいたプレボストとその指揮下の部隊乗船させ、直後5月29日には第二次サケッツ港の戦いアメリカ軍基地襲った。これは戦略的に大胆な攻撃だったが、ヨープレボスト慎重になり過ぎ、固い抵抗遭って攻撃中止したアメリカ軍捕獲していたデューク・オブ・グロスターと、建造中だった重スループ・オブ・ウォージェネラル・パイクに早手回し火を付けていたが、イギリス軍撤退したときに火を消すことができた。デューク・オブ・グロスターと大量物資破壊されたが、ジェネラル・パイクは救われた。 チョウンシー急ぎサケッツ港に戻り、ジェネラル・パイクの完工待ってそこに留まることになったアメリカ軍オンタリオ湖での動き止めている間に、ヨー戦隊ナイアガラ半島アメリカ軍ジョージ砦まで追い返す動き支援し大量物資捕獲または破壊した7月1日ヨー小さなボートでサケッツ港を襲うことで、艤装中のジェネラル・パイクを破壊しようとしたが、脱走兵アメリカ軍通報する可能性怖れ攻撃中止させた。 チョウンシー戦隊7月21日完成した。まずオンタリオ湖西端にあるイギリス軍の防衛拠点バーリントン・ハイツを襲おう画策したが、守備隊備えができていることが分かりリスク冒せなかったので、その代わり再度ヨーク短期間占領したが、あまり損失与えられなかった。先の攻撃略奪した資産返還することまでやった。

※この「1813年の動き」の解説は、「オンタリオ湖での戦闘」の解説の一部です。
「1813年の動き」を含む「オンタリオ湖での戦闘」の記事については、「オンタリオ湖での戦闘」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1813年の動き」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1813年の動き」の関連用語

1813年の動きのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1813年の動きのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのオンタリオ湖での戦闘 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS