イギリス軍の防衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:50 UTC 版)
「ペンサコーラの戦い (アメリカ独立戦争)」の記事における「イギリス軍の防衛」の解説
ペンサコーラのイギリス軍指揮官ジョン・キャンベル将軍は、1779年にスペインとの敵対関係が始まって以来、その防御の状態を心配し、援軍を要請し、防御工作の追加物の建設を始めた。1781年初期までにペンサコーラの防衛隊は、第16歩兵連隊、第60歩兵連隊の1個大隊、第4王室砲兵大隊第7中隊、(現在の第16王室砲兵連隊第20王室砲兵大隊)で構成されていた。これらに加えてワルデックの第3連隊とメリーランド・ロイヤリスト大隊、さらにペンシルベニア・ロイヤリストで補強されていた。この補強部隊は民兵というよりも植民地の兵士だった。これらロイヤリストの兵士に加えて、多くのインディアン戦士がイギリス軍を支えていた。1780年3月にモービルが陥落した後、1,600名以上のインディアンがペンサコーラに到着し、そのうちではクリーク族の数が多かった。スペイン軍がペンサコーラ攻撃を始める直前には、788名のインディアン戦士が居たが、キャンベルはその攻撃が差し迫っているとは認識できず、約300名を去らせていた。包囲戦と戦闘の間には500名以上のインディアンがペンサコーラを守っており、その大半はチョクトー族だった。 ガルベスは1779年にペンサコーラに逃亡奴隷を戻させることに関する議論を行う振りをさせた副官を送って、その防衛状態について詳細な報告書を受け取っていたが、キャンベルはその後も防衛には多くの変更を行っていた。1781年初期におけるペンサコーラの防御工作物は土盛りで頂部に逆茂木を置いたジョージ砦があり、これはキャンベルの指示で1780年に再建されたものだった。砦の北にはプリンス・オブ・ウェールズ堡塁、その北西にはクィーンズ堡塁があり、これらも1780年に建設されていた。キャンベルは湾の入り口近くにバランカス・コロラダ砦と呼ぶ砲台も建設させた。
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