イギリス軍の遠征と上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:50 UTC 版)
「ルイブールの戦い (1758年)」の記事における「イギリス軍の遠征と上陸」の解説
ケープ・ブレトン島の要塞の町、ルイブールは、オーストリア継承戦争期間中の1745年に、イギリスの後押しを受けたニューイングランド植民地の兵に侵攻されたが、アーヘンの和約でフランスに返還された。これにより、イギリスの、カナダ征服の野望が後退した。1758年、ルイブールのフランスの駐屯部隊はわずか3,000人だったが、この年の早春に、やがて起こるであろうイギリスの奇襲に備えて、港を守るために、5隻の軍艦が来た。同じ1758年の5月下旬、エドワード・ボスコーエン提督率いるイギリス艦隊が、ノバスコシアのハリファクスから、ルイブールに到着した。ボスコーエンと、陸軍の指揮官ジェフリー・アマーストは、上陸の計画を練った。一方、ルイブールの総司令官であるオーギュスタン・ド・ボシェンリ・ド・ドリュクールは、イギリス側の企みに気づいており、上陸阻止と、包囲への抗戦の準備を進めた。 ルイブールのガバルス湾岸には、塹壕が掘られ、砲床が据え付けられていて、港には、5隻の、戦闘準備を整えた艦隊が、イギリス軍の接近から港を守るように配備されていた。湾の沖合に停泊したイギリス軍は、悪天候のため上陸を見合わせていたが、6月8日、准将のジェームズ・ウルフ指揮下の軍が上陸に踏み切った。ボスコーエンの艦の大砲が、この上陸の援護射撃を行った。 フランス軍の防御はすさまじく、ウルフ軍の船は退却せざるを得なかった。しかし退却の際、大きな岩の陰に、上陸するのに手ごろな場所を見つけた。この場所は、ガバルス湾の淡水の入江の近くで、ケニントン・コーブと呼ばれ、ルイブール国定史跡の一部となっている。上陸したイギリス軍は、側面と背後からフランス軍を攻撃して、ルイブールの要塞へと退却させた。フランスがかなり目を光らせていたが、イギリス軍も、物資や大砲を陸揚げして、町の方へと進軍して行った。ウルフは、港を包囲し、灯台のある、ライトハウス・ポイントを奪うよう命じられ、1,220人の兵とともに、6月12日にライトハウス・ポイントを占領した、この場所に砲台を築いて、港を射程内に納めることができたのである。
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