イギリス軍の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/08 06:54 UTC 版)
イギリスの工兵は24時間でロリアンを破壊すると豪語したが、すぐにそれが不可能であることがわかった。大砲が運ばれてきたものの砲弾が足りず、臼砲が運ばれてきたものの炉がなく、砲撃を停止せざるを得なかった。イギリス軍の3分の1が大砲を輸送するために駆り出され、疲労がたまる原因となった。本格的な包囲は10月5日にようやく始まり、砲撃は更にその翌日に繰り越された。しかし、イギリスの大砲がロリアンから遠すぎたため与えるダメージは限定的となった。ロリアンの損害は6人が死亡、12人が負傷、家屋2軒が炎上、2軒が重大な損傷、15軒が軽微な損傷を受けるにとどまった。石造な家屋が多く、木があまり使われなかったためイギリスの砲撃の効果が減殺されたのだった。デイヴィッド・ヒュームは下記のように記述した。 兵士たちは疑念の犠牲者になった。十数人のフランス人を見ただけで私たちの戦列に恐怖が走り、ブラッグの連隊とフランプトンの連隊がお互いに射撃するほどであった。だれもが勇気を失っており、雨(すでに3日降っていた)がその原因だった。軍営と艦隊を繋ぐ道が通行不能に陥った。 イギリス軍は疲労と疫病により損耗し始めた。10月6日の夜の時点で戦闘に適する兵士は3千人しか残っておらず、ソーティの脅威に常に晒され、ケロマンの沼地(Keroman)にある軍営を守らなければならなかった。同6日にはフランス軍の脱走者ととある黒人奴隷や娼婦から情報を得、イギリス軍はロリアン市内に2万人に近い軍勢が待ち構えており、大規模な反撃がすぐにでも起こると信じ込んだ。 嵐が予想されたため、レストックはもはやロリアン沖に残れないと伝えた。その結果、シンクレアは包囲を解くしかないと結論付けた。10月6日の夜に行われた作戦会議では結論が出なかったが、撤退が議論された。翌日の砲撃も効果がなく、午後には撤退が決定された。イギリス軍は軍営を放棄したが、撤退している最中であることを隠すために砲撃を続けた。乗船は9日まで終わらず、さらに逆風によりすぐ出発することができず、艦隊の出航は翌10日を待たなければならなかった。
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