1812年の出来事
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「ジョージ砦の戦い」の記事における「1812年の出来事」の解説
米英戦争が始まったとき、ジョージ砦近くのイギリス軍もナイアガラ砦のアメリカ軍も、戦闘を始める準備ができていないと考えていた。1812年5月18日、イギリス領カナダ軍政府司令官ジョージ・プレボスト中将は、本国の陸軍と植民地担当大臣から来ていたカナダの軍事状況を問い合わせる手紙に返信を書いていた。プレボストはジョージ砦に第41連隊の兵士400名と砲兵中隊が駐屯していると述べていた。また、アメリカ軍がかなりの勢力でジョージ砦を攻撃してきた場合には持ちこたえられないと考えるとも書いていた。アメリカ側では、フィレタス・スウィフト大佐とベンジャミン・バートンが戦争前に、ニューヨーク州知事ダニエル・トンプキンズに宛てて、ナイアガラ砦はイギリスが宣戦布告した場合には陥落するだろうと書いていた。しかし1812年6月までにナイアガラ砦のアメリカ軍指揮官はイギリス軍による攻撃を予測し、援軍を要求していた。 10月8日、ニューヨーク州民兵隊のスティーブン・ヴァン・レンセリア少将が、クィーンストンを攻撃するためにルイストンから民兵隊を送る作戦を立てた。そうすれば、イギリス軍はジョージ砦からクィーンストンに兵士を送らざるを得なくなる可能性が強かった。筋書通りになれば、アレクサンダー・スミス准将が指揮するアメリカ軍正規兵の部隊がフォーマイル・クリークから船でジョージ砦背後に移動し、砦を占領できるというものだった。この作戦はスミスが共同歩調を取れなかったために失敗した。10月10日から11日の夜に作戦通り実行しようとした試みは悪天候に邪魔された。スミスはその部隊をブラックロックまで後退させた。 ヴァン・レンセリアは、スミスの共同行動なしに、10月13日から14日の夜にルイストンからの部隊でクィーンストンを攻撃した。そのクィーンストン・ハイツの戦いの間に、ジョージ砦とナイアガラ砦双方の大砲で互いに砲撃戦を始めた。その間にアメリカ軍は郡庁舎、監獄、およびその他14ないし16の建物を焼くことになった。この戦闘中、ジョージ砦はエバンス少佐が指揮しており、主たる守備隊としては20名に過ぎない兵士が活動しているだけだった。
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