イギリスの計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/23 11:22 UTC 版)
戦争の報せが届くと、植民地マドラスの総督(英語版)であったホバート卿(英語版)はレーニアと討議、セイロン侵攻を決定した。侵攻軍は水陸両用作戦の形態を取り、このうち陸軍は第71(英語版)、72(英語版)、73(英語版)歩兵連隊、第1(英語版)、23マドラス大隊、イギリス工兵(英語版)からの派遣、マドラス工兵隊や支援軍によって構成された計2,700人で、指揮はジェームズ・ステュアート(英語版)大佐に委ねられた。海軍は74門戦列艦サフォーク(英語版)、50門4等艦}センチュリオン(英語版)の2隻で、指揮官にはピーター・レーニア(英語版)少将が就任した。レーニアは7月21日にマドラスを出港し、イギリス東インド会社の商船をナーガパッティナムまで護衛した後、44門5等艦ダイオミード(英語版)と32門5等艦ヒロインの増援を受けた。 ステュアートとレーニアはバタヴィア側の総督ヨーハン・ファン・アンゲルベック(英語版)が、イギリスによる平和的な占領を受け入れることに希望を寄せた。これはウィレム5世がイギリス軍に従うよう求めたキューの手紙(英語版)を発したためであった。コロンボへ向かったイギリス代表はファン・アンゲルベックの説得に成功し、トリンコマリー近くのオステンブルク要塞に300人のイギリス軍を上陸させることで合意した。しかし、8月1日にセイロン島東岸に到着すると、駐留軍の指揮官は指示の文言に問題があるとして従わなかった。説得は2日間続いたが、その間にイギリスの44門5等艦ダイオミード(英語版)がトリンコマリー港で沈没、乗員は全員が助かったものの多くの軍用物資が失われた。
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