イギリスの艦隊派遣とは? わかりやすく解説

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イギリスの艦隊派遣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/15 09:05 UTC 版)

1755年6月8日の海戦」の記事における「イギリスの艦隊派遣」の解説

フランス北アメリカに軍を集結しているという情報をもとに、イギリスは、1755年4月艦隊北アメリカ派遣したフランス軍艦への妨害目的で、具体的には「ノバスコシアに軍を上陸させて、ケープ・ブレトン島(イル・ロワイヤル)に上陸させようとするフランス軍艦、あるいは、セントローレンス川経由ケベックに向かうフランス軍艦を見つけること」であった。 まだ宣戦布告はなされていなかったが、これはかなり敵意むき出しにした反応だった。イギリス軍艦による罠にフランス落とし込むのが狙いで、提督エドワード・ボスコーエンがその任務就いた14隻から構成される彼の艦隊出港したのち、海軍本部はこの艦隊後押しすべく、本隊出港してから3週間ほどたって、さらに7隻の艦を派遣した。こうして、1755年5月末までには、イギリス艦隊ニューファンドランド南岸と、ケープ・ブレトン島北岸の間を航海していた。この時点では、アメリカの海に繰り出した史上最大イギリス艦隊で、七年戦争を戦ううえで、ヨーロッパのみならずアメリカで植民地戦争にも力を入れるという、のちにウィリアム・ピットによって打ち出され政策前触れともいうべきものだったフランスはかなり遅れて1755年5月3日ブレスト港を発った。ラ・レーヌ(英語版)、ブルゴーニュ英語版)、ラングドック英語版)、ギュイエンヌ英語版)、アルトワ英語版)、そしてベアルヌ英語版)各連隊から総勢3,000人の兵が乗務しており、男爵ジャン・ディスカウ(ジェスコー)に指揮をゆだね、提督デュボワ・ド・ラ・モットは艦隊責任請け負った。この艦隊は、北アメリカ植民地への物資輸送のためのもので、最初寄港地ルイブール向けて出港した

※この「イギリスの艦隊派遣」の解説は、「1755年6月8日の海戦」の解説の一部です。
「イギリスの艦隊派遣」を含む「1755年6月8日の海戦」の記事については、「1755年6月8日の海戦」の概要を参照ください。

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