イギリスの目標
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/25 23:31 UTC 版)
イギリスはナポレオン・ボナパルトとの死命を決する戦争を継続中であり、理屈から言えば中立国には許されるはずの敵を援助するという行為も、アメリカに対しては許せなかった。歴史家のホースマンが説明するように、「可能ならばイギリスはアメリカとの戦争を避けたかったが、フランスと戦争をしているイギリスを妨げることを許す程、器量が大きくなかったということである。さらに...イギリスの世論に大きな影響を及ぼす勢力が、政府においても地方においても、イギリスの海軍力の優位性をアメリカが脅かしたと考えた。」 イギリスには2つの目標があった。国民を挙げてフランスを倒すために動いていたので船員を必要とした(このために船員の強制徴募が必要だった)。またフランスに対する全力を出しての商業的な戦争でもあった(このためにアメリカの商船に制限を課した)。アメリカとの貿易問題についてイギリスの世論は分かれた。ホースマンは、「この時代のイギリスにとって、中立国の交易に何らかの制限を課すのは基本であった。1807年以降その制限が極端な形を取ったことは、ナポレオンを倒すためばかりではなく、イギリスの中にあったアメリカの商業的繁栄に対する疑いもない嫉妬から生まれてきていた。1803年から1812年にかけてのほとんどの期間、イギリスの政治的な力が、フランスを倒すだけでなくイギリスの商業的優位性を堅く維持することを誓った一つの集団によって握られていたことはアメリカにとって不幸であった。」と指摘した。 その集団は1812年の中頃には合衆国に好意的なホイッグ党によって勢力を弱められたが、政策そのものは残り、合衆国が既に宣戦布告していたので遅すぎた。イギリスは1815年までに商業的優位性を重んじる政治家によっては最早動かされていなかったので、この理由は消滅した。 イギリスはその政策を不正確に伝えたワシントンの弱い外交能力と、情報伝達が遅すぎてアメリカが宣戦布告するまで政策が変わったことをしらなかったことにより邪魔をされた。 イギリスが強制徴募を止めたことによってアメリカが休戦を提案すると、イギリスはすでに抱えていた船員が必要だったためにその申し出を拒絶した。ホースマンは次のように説明している「強制徴募は、1803年から1807年にかけてのイギリスとアメリカの主要な論争点であったが、イギリスがナポレオンとの戦争に船員が不足していたのでそれが必要だった。同じようなやり方で、イギリスの枢密院令でアメリカの交易に課した制限は、1807年から1812年の大きな論点であったが、イギリスとフランスの間に行われた大規模の商業戦争の一部に過ぎなかった。」
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