1844年大統領選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 02:25 UTC 版)
「オレゴン境界紛争」の記事における「1844年大統領選挙」の解説
オレゴン問題の重要人物アメリカ合衆国イギリスジェームズ・ポークアメリカ合衆国大統領 ロバート・ピールイギリスの首相 ジェームズ・ブキャナンアメリカ合衆国国務長官 ジョージ・ハミルトン=ゴードンイギリス外務大臣 ルイス・マクレーン駐英アメリカ合衆国大使 リチャード・パケナム駐米イギリス大使 1844年大統領選挙の前の民主党党員集会で、テキサス併合を要求することと、アメリカはオレゴンの「全体」に「明確で疑問の余地の無い」領有権があり、「その如何なる部分もイングランドあるいはその他の強国に譲渡すべきではない」とする綱領を決めた。オレゴン問題を、より議論の多かったテキサス論争に非公式に結びつけることで、民主党は北部の拡張論者(オレゴン問題について譲らなかった)と南部の拡張論者(テキサス併合に傾注していた)の両方に訴えることができた。民主党大統領候補ジェームズ・ポークはホイッグ党候補者ヘンリー・クレイに僅差で勝利したが、これはクレイが拡張に反対する立場を取ったことが一部の要因だった。この選挙では「54度40分さもなくば戦争」というスローガンはまだできていなかった。この選挙で(ペンシルベニア州で)使われた実際の民主党選挙スローガンはよりありふれた「ポーク、ダラスそして1842年関税」だった。 ポーク大統領は1845年の就任演説で、党の綱領から引用し、アメリカはオレゴンに対する「明確で疑問の余地の無い」領有権があると言った。両国の緊張感が高まり戦争を予測して境界の防御を固める動きに出た。ポークの大胆な発言にも拘わらず、実際には妥協の備えもあり、オレゴン問題で戦争に走る考えは無かった。断固たる態度がイギリスにアメリカが認められる解決案を強制できると信じ、「ジョン・ブルを扱う唯一の方法はその目を真っ直ぐに見ることだ」と書いていた。しかし、ポークのオレゴン問題に対する姿勢は単に見せかけでは無かった。アメリカは全地域に対する合法の権利があると誠実に信じていた。イギリスの仲裁により問題解決を図るという提案には、公平な第三者が見つからないことを恐れて拒否した。 イギリスの首相ロバート・ピールの外務大臣アバディーン伯ジョージ・ハミルトン=ゴードンも、イギリスにとって経済価値が減少しているこの地域について戦争に進む意図は無かった。さらにアメリカは重要な貿易相手国であった。アイルランド飢饉が始まり、イギリスは食糧危機に見舞われ、アメリカの小麦に対する需要が増加した。アバディーン伯は既にアメリカの提案する北緯49度線で国境を確定することに決め、駐米イギリス大使リチャード・パケナムに交渉開始を指示した。 一方、アバーディーン伯とパケナムは戦力の見地からも交渉していた。重要な要素はイギリスがアメリカに対して派遣できる圧倒的に優勢な海軍力であり、これに外交と政治の見地を結びつければ、自国の権益を着実にかつ武装闘争に訴えることなく守るというイギリスの目標に究極的に適うと見ていた。地元の利益は総司令官ジョージ・シーモア海軍少将指揮する戦列艦HMSコリングウッド(大砲80門搭載)で守られていた。この危機の間、シーモアの戦隊はジョン・ゴードン艦長の指揮するフリゲート艦アメリカ(大砲50門搭載)で補強された。シーモアの他の規範となる行動とは対照的にゴードンの危機中の判断ミスは軍法会議に掛けられ譴責されることになった。 最終的にイギリスの政治家達と海軍の士官達はオレゴン境界を巡る紛争が、如何に望ましくないとしても、(1812年の米英戦争のように)合衆国の東海岸と五大湖地域で決するものと認識していた。イギリス海軍の優越性が十分に発揮されるのがそこであり、危機中にアメリカが意志決定する際に、特に妥協を決めるときに最も強力に働くのがこの影響力だった。駐英アメリカ合衆国大使ルイス・マクレーンは、イギリスが「予備役に保有する蒸気船やその他の艦船に加えて即座に30隻の戦列艦を就役させる」用意があると報告した。ポークの虚仮威しは無効だった。 このような背景に対してピール政権の巧みな外交術によりポークに引き下がるチャンスを提供した。それをポークは喜んで受け入れた。アメリカにとって米英戦争の再現とその不吉な結末は誰の計画にも無く、このような些細なことでフランスの支援の見込みも無かったので、ポークには選択の余地が無かった。 この頃ハドソン湾会社はオレゴンでの商業的支配力を徐々に失っており、その興味は徐々に海運に向きつつあり、バンクーバー島よりもコロンビア川の重要度を低くしていた。海運と貿易の権益はエスクワイモルト海軍基地の発展で守られており英国艦隊もそこを基地にしていた。 地元での英国海軍の存在はそれほど優越していなかったが、アメリカ海軍に対する全体的な優越性でイギリスの政治家達は、アメリカ政治家の野蛮な主張を負かし、バンクーバー島を維持し、また大きな貿易相手国との潜在的に金のかかる気を逸らすような戦争を最小のコストで避けるという中心目標を達成可能にしていた。当時新ボナパルト(ナポレオン3世)のフランスやヨーロッパでの力の平衡の方がより大きな問題だった。 交渉を複雑にしていた要素はコロンビア川の航行問題だった。ポークの前任者ジョン・タイラーは、イギリスが北緯49度線の国境を認めるならば川の無制限航行を認める提案をしていた。1845年夏、ポーク政権はオレゴンを北緯49度線で分ける新たな提案をしたが、この時は航行権を譲歩する条項は無かった。以前にタイラー政権で提案したこの提案が欠落したために、パケナムはロンドンに相談することなく拒絶した。抗議を受けたポークは1845年8月30日に公式に提案を引っ込め、交渉は決裂した。アバディーン伯はこの外交的しくじりでパケナムを非難し、対話を復活させようとした。しかし、この時までにポークはイギリスの意図を疑い、妥協を許さない高まる政治的圧力の下にあった。ポークは交渉再開を拒否した。
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