スローガンと戦争の危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 02:25 UTC 版)
「オレゴン境界紛争」の記事における「スローガンと戦争の危機」の解説
一方、アメリカの多くの新聞編集者は、民主党が1844年大統領選挙で提案したようにポークが全地域の領有権を主張するよう強く要求した。1845年11月までに「オレゴン全部さもなくば無」というヘッドラインが新聞に現れた。1845年12月27日の「ニューヨーク・モーニングニューズ」紙の論説で、編集者ジョン・オサリヴァンは、アメリカ合衆国は「我々のマニフェスト・デスティニーを拡げ、大陸全体を所有する権利によって」全オレゴンの所有権主張をすべきと論じた。その後間もなく、「マニフェスト・デスティニー」という言葉は拡張論者の標準的言葉遣いとなり、アメリカの用語集にも載るようになった。オサリバンの言う「マニフェスト・デスティニー」は戦争を要求するものではなかったが、そのような要求が間近に迫っていた。 ポークは1845年12月2日の議会における年次演説で、イギリスに対し共同占有合意の終結について要求される1年前の告知を行うことを推薦した。議会において、中西部出身の民主党拡張論者はミシガン州のルイス・カス、インディアナ州のエドワード・A・ハネガンおよびオハイオ州のウィリアム・アレン各上院議員が率いており、北緯54度40分までの全オレゴンで幾らかでも欠けるところがあるよりもイギリスとの戦争を要求した(北緯54度40分はロシアの主張するアラスカ領の南限だった)。「54度40分さもなくば戦争」というスローガンが1846年1月までに現れ、民主党の圧力もあって広まった。この言葉はしばしば、多くの教科書でも1844年の大統領選挙の選挙スローガンと誤って認識されている。『Bartlett's Familiar Quotations』ではウィリアム・アレンが最初に使ったとしている。 戦争の掛け声は多くの要素によって加速された。伝統的なイギリス嫌い、アメリカの方がより良い主張をしておりその土地をより良く使えるという信念などである。中道派は、世界最強国のイギリスとの戦争でアメリカは勝てないと警告し、交渉でアメリカの領土的目的を成就できる余地があると主張した。アメリカにおける議論は厳密には党や派閥で分かれていなかったが、北緯54度40分を強く主張した者の多くは北部人であり、ポーク(南部の奴隷所有者)はテキサスの追求(南部奴隷所有者には恩恵があると見なされる問題)には妥協しないが、オレゴン問題では妥協しようとしていると行って攪乱した。歴史家のデイビッド・M・マクファーソンが指摘しているように、「54度40分さもなくば戦争」はイギリスにだけでなく、アメリカの南部富裕層にも向けられていた様に思われる。
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