1844–1911年
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「ウスターシャー」の記事における「1844–1911年」の解説
ウスターシャ―にはいくつかの飛地があった。これはウスターシャーの主要な地理的地域から切り離され、ウォーリックシャー、スタッフォードシャー、グロスタシャー、ヘレフォードシャー、オックスフォードシャーといった近隣のカウンティに完全に囲まれた土地である。もっとも有名なのはダドリー、イブンロード、 シップストン=オン=ストア周辺の地域などである。反対に、スタッフォードシャー、ウォーリックシャー、シュロップシャーはウスターシャー内に飛地があった。これらはクレント、ターデビジ、ヘイルソーウェン/オールドベリー(あるいはヘイルソーウェン行政区域)で見受けられ、1844年10月に1844年カウンティ(分離部分)法に基づき移転あるいは復帰した。.この議員立法は島や飛地での問題を根絶するよう設計されていたが、 シップストン=オン=ストアは1931年4月まで、また同様にダドリーは1966年までウスターシャ―に帰属したままだった。このカウンティの南部境界でもグロスタシャーや逆にウスターシャーに深くまで食い込んだ行政区について混乱がおきていた。これも結局1844年の今法案によって解決した。 ウスターシャ―カウンティ議会は1888年地方政府法に従い実現され、ダドリーとウスターにある2つの指定された特別市を除く、歴史と伝統のあるこのカウンティ全体を支配した。 バーミンガムの継続的な拡大はウスターシャーの境界が頻繁に変更されたことと、それに伴う住宅問題の大きな原因である。バルサール・ヒース地区は、もともとは最北部のキングス・ノートン行政区を構成していたが、1891年10月1日にバーミンガム特別市に加えられた最初のカウンティ地域であった。 それに続き1909年11月にクィントン市街地が割譲され、さらにヤードレーの農村地区や、キングス・ノートンの市街地区の大部分が大バーミンガム構想に基づき1911年11月にバーミンガムに吸収された。その後これらの地域はウスターシャーからウォーリックシャーへと移転された。ウスター司教監督管区内、および貴族間の血縁におけるダドリーの歴史的な地位[clarification needed]によって飛地は大規模自治制によって統治することが保証された。ウスターも同様に自治制をとり、The City and County of Worcesterとして知られていた。
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