『日本国志』の編纂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:38 UTC 版)
『日本国志』が一応の完成を見たのは1887年(光緒13年)である。作った四部のうち一部を手元に留め、のこりは総理衙門や李鴻章、張之洞に提出した。1890年(光緒16年)には版木に付されたものの刊行されず、実際に印刷したのは1895年(光緒21年)である。時あたかも日清戦争の敗戦後であって、明治日本の情報が渇望されていた時期であった。この書によって日本及び明治維新がどういうものであったか広く知られるようになったのである。日清戦争の賠償金は二億両であったが、そのために「此書早く布けば、歳幣二万万を省かん」(前述袁昶の言)、つまり『日本国志』が早く知られていれば、(いたずらに戦争を求める人たちを黙らせ)賠償金二億両を支払わずとも済んだものを、と嘆息されたことは有名。 体裁は『通典』や『通志』に則り、構成は以下のようになっている。「中東年表」(中国と日本年号対照表)、「国統志」(日本史)、「隣交志」(外交史)、「天文志」、「地理志」、「職官志」(官職)、「食貨志」(財政)、「兵志」、「刑法志」、「学術志」、「礼俗志」(社会風俗)、「物産志」、「工芸志」。全40巻、総字数50万字強。日本語に翻訳するならばその数倍の字数が必要となることは言うまでもない。 体裁や構成は伝統にしたがってはいるものの、その中身は大きく異なる。この著作の特徴としてまず挙げねばならないのは、その編集方針である。それまでに編まれていた他の海外地理書とは違い、『日本国志』は自民族中心的な部分が無く、事実の記載を重視する。また事実を記載する上でも古き時代よりも新しい時代、特に幕末から明治を詳しく叙述している。そして事実を記した後、「外史曰く」ではじまる黄遵憲の評論を付しているが、そこでは時に祖国との対比がなされている。これは比較によって明治日本を手本とした改革の道筋を示さんがためであった。また見た目も工夫が施され随所に数字や統計、表が用いられ、日本や欧米の書物の良いところを取り入れようとしたようだ。 この『日本国志』は二つの役割を持っていた。まず改革の手本を示すこと、そして明治日本の現状紹介である。前者について言えば、五箇条の御誓文、廃藩置県、秩禄処分、地租改正等は無論触れられており、制度改革全般、政治・経済・軍事・文化問わず細かく述べている。後者の現状紹介は、単なる紹介というよりも必然的に改革の結果を示す形となっている。 この『日本国志』は日清戦争後にあっては、非常に大きな影響があったと言わねばならない。中国における明治維新観を決定づけたばかりか、それに範を取った改革、戊戌変法を推進する原動力の一つともなったからである。戊戌変法を推進した康有為・梁啓超ら変法派は改革案の立案に際しこの書から着想を得ている。たとえば康有為には光緒帝に献呈した『日本変政考』という書物があり、この書は光緒帝が改革を決意するきっかけとなった書でもあるが、この書の中には『日本国志』からまるまる引用された箇所があって、日本の実情を示す際の根本資料として『日本国志』が扱われている。具体的な政策のモデルとしてだけではなく、『日本国志』の中の尊皇攘夷運動についての記述は、改革の必要性を切に感じていた清末の青年、たとえば譚嗣同や唐才常といった変法派に属しながら革命志向があった者達に、強い共感をもって読まれた。大久保利通や木戸孝允といった明治の元勲の名前は当時にあっても『日本国志』によってよく知られた名前だったのである(『人境廬詩草』巻三には「近世愛国志士歌」という幕末志士を称える詩もある)。
※この「『日本国志』の編纂」の解説は、「黄遵憲」の解説の一部です。
「『日本国志』の編纂」を含む「黄遵憲」の記事については、「黄遵憲」の概要を参照ください。
- 『日本国志』の編纂のページへのリンク