『日本国体学』執筆とアジア太平洋戦争敗戦
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「里見岸雄」の記事における「『日本国体学』執筆とアジア太平洋戦争敗戦」の解説
里見は自身の学問の集大成である『日本国体学』を執筆するために、昭和18年11月に伊勢神宮や橿原神宮で寄稿式を行い執筆に取り掛かったが、ちょうどアジア太平洋戦争の本土空襲が本格的始まった。空襲警報が発令されると里見は、書きかけの原稿用紙に発令日時を記入、書庫を振り返りつつ避難し、解除になると直ちに戻り、解除の時刻を記入して執筆にかかった。そして疎開先の秋田県扇田町において、昭和20年8月15日、玉音放送を拝した。翌日16日、里見は直ちに「総裁非常訓辞」を執筆。「わが大日本帝国は2600年にして真の国体顕現の歴史に入れり、転禍為福の妙機蓋し此時に在り……熱涙の中に国体を凝視せよ。焼土の中より正義護国の大道念を燃えあがらせよ」と全国の同志に発送。 18日、扇田における例月国体学講座を救国再建の第一声として「熱涙の中に国体の大義を凝視せよ」の題下に講演を計画し、25日夜開催。これを伝え聞いた町民は、立錐の余地なきほど参集。里見は、憂国の熱弁によって、失意のどん底にあった町民に光明と勇気を与えた。 物心共に興廃し、共産主義と民主主義の風潮に覆われていた日本をいかに再興すべきかという問いは、里見の念頭を去ることがなかった。機関誌復興に向けて努力の傍ら、他誌を通じて救国の筆を振い、『天皇と共産党』『科学的国体論』『唯物弁証法と生命弁証法』の単行著作を公刊して文筆を続け、昭和22年3月『国体戦線』を復刊した。しかし、占領軍最高司令部から公職追放され、言論弾圧なども受けている。 昭和23年3月17日、里見は、大著『日本国体学』全13巻、総紙数35,000枚を脱稿。全国同志の参集を得て、4月3日神武天皇祭にあたり、神武天皇陵前で日本国体学大成奉告式を挙行した。その後、里見は救国再建と会勢の拡大をはかるべく、昭和23年8月、西部巡講を皮切りに、年々歳々、継続的、波状的な全国巡講を開始した。巡行は幾十回に及び、一回70日に及ぶこともあり、最も多い講演回数は年100回を数えた。
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