日清戦争と三国干渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/24 07:50 UTC 版)
「ヘンリー・デニソン」の記事における「日清戦争と三国干渉」の解説
1894年(明治27年)に勃発した日清戦争に際しても、翌年下関で行われた講和会議において陸奥外相の顧問の資格で全権に随行した。下関条約締結直後に、遼東半島返還を要求するロシア・フランス・ドイツによる三国干渉が行われた際の対応を巡って、広島大本営における御前会議においては、列国会議を招集して干渉に対抗しようとする意見が大勢を占め、いったん方針が決定されたが、いたずらに列強諸国を刺激するのは下策として、伊豆で病気療養中の陸奥外相と伊藤博文首相・デニソンの三者会談により、三国干渉に対する処理と、下関条約の批准交換を分けて処理することとなり、決定は覆された。 1900年(明治33年)からは日本政府による指定でハーグの常設仲裁裁判所裁判官もつとめている(没年まで継続した)。1902年(明治35年)に日英同盟を締結する際も、小村寿太郎外相の要請を受けて反対派の元老・井上馨を説得するなど、国内の外務事項においても活躍し、日本外交の枢機に関与していた。
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