日清戦争での功績とその後の大失態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/13 09:23 UTC 版)
「劉冠雄」の記事における「日清戦争での功績とその後の大失態」の解説
1894年(光緒20年)、劉冠雄は「靖遠」の幇帯に任命され、日清戦争に参戦した。劉は、大東溝の海戦で日本軍と交戦し、果敢な操船により善戦した。この時の活躍は、後に袁世凱からも賞賛を受けている。 しかし、翌年1月の威海衛の海戦で「靖遠」は撃沈され、劉冠雄は辛うじて救出された。日清戦争終結後、劉は大東溝での功績をもって海軍に留められている。1898年(光緒24年)には、当時の中国における最大級の戦艦「海天」の管帯に抜擢された。 1904年(光緒30年)、劉冠雄は任務により秦皇島から江陰へ「海天」で向かう。途中、悪天候に見舞われたが、劉は大副杜錫珪の諫止を無視してその中を盲進した。結果、呉淞口付近で「海天」は座礁、沈没してしまう大失態となった。袁世凱の取り成しにより、劉は辛うじて一時免職のみで救われている。その後、徳州兵工廠総弁、北洋海防営務処会弁、広東水師営務処総弁などを歴任した。
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