日清の朝鮮出兵
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当時の第2次伊藤内閣は、条約改正のために3月に解散総選挙(第3回)を行ったものの、5月15日に開会した第六議会で難局に直面していた。同日、駐英公使青木周蔵より、日英条約改正交渉が最終段階で「もはや彼岸が見えた」との電報が届き、18日に条約改正案を閣議決定した。悲願の条約改正が先か、対外硬六派による倒閣が先か、日本の政局が緊迫していた。その頃、朝鮮では民乱が甲午農民戦争と呼ばれる規模にまで拡大しつつあり、外務大臣陸奥宗光が伊藤首相に「今後の模様により……軍艦派出の必要可有」と進言した(5月21日付け書簡)。 5月30日、衆議院で内閣弾劾上奏案が可決されたため、伊藤首相は、弾劾を受け入れて辞職するか勝算のないまま再び解散総選挙をするか、内政で窮地に陥った。翌31日、文部大臣井上毅が伊藤首相に対し、天津条約に基づく朝鮮出兵の事前通知方法と、出兵目的確定について手紙を送っており、首相周辺で出兵が研究されていた。 開会から18日後の6月2日、伊藤内閣は、枢密院議長山縣有朋を交えた閣議で、衆議院の解散(総選挙(第4回))と、清が朝鮮に出兵した場合、公使館と居留民を保護するために混成旅団(戦時編制8,000人)を派遣する方針を決定した。5日、日本は、敏速に対応するため、参謀本部内に史上初めて大本営を設置し(実態上戦時に移行)、大本営の命令を受けた第五師団長が歩兵第九旅団長に動員(充員召集)を下命した。ただし、派兵目的が公使館と居留民の保護であったこともあり、陸軍に比べて海軍は初動が鈍く、また修理中の主力艦がある等この時点で既存戦力が揃っていなかった。 日本が大本営を設置した6月5日(5月2日)、清の巡洋艦2隻が仁川沖に到着。日清両国は、天津条約に基づき、6日(3日)に清が日本に対し、翌7日(4日)に日本が清に対して朝鮮出兵を通告した。清は、8日(5日)から12日(9日)にかけて上陸させた陸兵2,400人を牙山に集結させ、25日(22日)に400人を増派した。対する日本は、10日(7日)、帰国していた公使大鳥圭介に海軍陸戦隊・警察官430人をつけ、首都漢城に入らせた。さらに16日(13日)、混成第九旅団(歩兵第九旅団が基幹)の半数、約4,000人を仁川に上陸させた。しかし、すでに朝鮮政府と東学農民軍が停戦しており、天津条約上も日本の派兵理由がなくなった。軍を増派していた清も、漢城に入ることを控え、牙山を動かなかった。
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