日清外交の推移
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「長崎貿易」および「開国#日本の開国」も参照 16世紀末以来、日本と中国(明・清)の間には正式な国交がなかった。また、日本の開国以前の日清貿易は肥前国長崎港1港に限り、江戸幕府の特許を受けた清国の一定数の商船が来航し、「唐人屋敷」とよばれる中国人居住地区に滞在して、そこで貿易取引が許されているのみであった。 開港後、江戸幕府はイギリスの仲介で上海港の清国官憲とのあいだで、日本人が商業や学問修業のために清国に渡り、上陸・居住することを認めてほしい旨、交渉を進めた。しかし、その交渉の途中で幕府が崩壊し、明治維新後、その交渉は新政府の九州鎮撫総督、ついで長崎府に引き継がれた。明治元年(1868年)10月、上海当局より、日本人と日本商船が上海に限って来航することを許すが、日本側は清国の法令を遵守すればそれでよく、改めて条約を結ぶ必要はないとの通告を受け、長崎府もそれを了承した。なお、在日清国人の犯罪は日本の法律で裁かれ、在清日本人も同様に清国の法で処罰されるとし、互いに治外法権を認め合わないこととした。ただし、この交渉は中央政府の指令にもとづいたものではなかった。 明治2年(1869年)2月以降、新政府の中枢では対清国交問題が検討されるようになった。同年11月、日本の外務省は清国の首都、北京に使節を派遣して状況を把握させ、もし日清貿易が発展の見込みありと判断されるならば、そのとき欧米各国の事例にならって国交を開けばよく、何も急ぐ必要はないとの意見を太政官に提出した。その一方で、万国交通の当世にあって開国和親の方針を打ち出した日本が隣邦との国交関係をもたないのは長期的にみて国力伸長の方針に即していないとする見解もあり、ことに李氏朝鮮に国交を求めた日本の国書に「皇」「勅」の字があり、そのことを朝鮮が「上国」である清国皇帝のみが使用しうる文字であるとして受理を拒否し、対朝国交問題が暗礁に乗り上げていることから、むしろ、それを逆に利用して日清が対等の交際を取り結べば、朝鮮も日本との開国に前向きになり、あるいは日本が朝鮮の「上国」の地位が確立できるという指摘もあった。 明治2年12月3日、当時従三位の木戸孝允を欽差全権大使として清国および朝鮮に差遣するとの勅令が出された。しかし、木戸は国事に忙殺されて日本を離れることができず、この計画は頓挫し、明治3年6月29日(1870年7月27日)、外務権大丞柳原前光(公家出身)および外務権少丞花房義質(旧岡山藩士)を清国に派遣し、国交樹立と通商開始の予備交渉および貿易状況の調査にあたらせることとした。
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