戊戌の変法
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戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう、中国語: 戊戌变法、旧字体: 戊戌變法)とは、中国清朝末期の1898年(=戊戌の年、光緒24年)に実行された、一連の政治改革の総称。明治維新と同様の立憲君主制による近代化革命(維新、上からの改革)を目指す変法自強運動の集大成にあたる。運動を担っていた康有為・梁啓超ら変法派と、彼らを受け容れた光緒帝によって、同年6月11日から改革が実行された。しかしその後、改革を嫌う西太后が、同年9月21日にクーデター(戊戌の政変)を起こしたため、改革は強制的に中止された。実行された日数(103日間)の短さから「百日維新」とも呼ばれる。
注釈
出典
- ^ 川島 2010, p. 10.
- ^ a b c 川島 2010, p. 28.
- ^ 川島 2010, p. 27.
- ^ a b c 川島 2010, p. 34.
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- ^ 坂元 2017, p. 34.
- ^ 川島 2017, p. 28.
- ^ 坂元 2017, p. 43.
- ^ 劉争「厳復と翻訳 : 主体性と「達詣」の限界性について」『愛知 : φιλοσοφια』第29巻、2017年、35頁、doi:10.24546/81010342。
- ^ a b 川島 2010, p. 29.
- ^ 関西中国女性史研究会 編『増補改訂版 中国女性史入門 女たちの今と昔』人文書院、2014年。ISBN 9784409510544。 第3章「女性解放」
- ^ 坂元 2017, p. 48.
- ^ a b c d e 川島 2010, p. 32-33.
- ^ 坂元 2017, p. 49.
- ^ a b c d e f 川島 2010, p. 31-32.
- ^ 『戊戌六君子-1415615』 - コトバンク
- ^ 川島 2010, p. 166.
- ^ 川島 2010, p. 26.
- 1 戊戌の変法とは
- 2 戊戌の変法の概要
- 3 概要
- 4 その後
- 5 研究
- 6 外部リンク
変法自強運動
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1895年から1898年にかけて、変法自強運動(変法運動)と呼ばれる運動が展開された。変法運動は言論活動を軸にして展開された。すなわち、上記の強学会のような学会が発行する会報や、出版社(報館)が発行する雑誌や新聞を主な媒体として、様々な改革案を提示する形で展開された。そのような媒体の代表例として、強学会の『中外紀聞(中国語版)』『強学報』、時務報館の『時務報(中国語版)』などがある。これらの媒体は、都市部での輿論の形成に寄与するとともに、国際情勢を紹介する役割も担った。 変法運動の中心人物である康有為は、上記の第一上書に失敗して以来、儒学者の廖平(常州学派)の影響のもと、儒学思想を応用した体制変革論(孔子改制説・大同思想)を構築していた。また、康有為を含む変法運動の担い手たちは、在家の仏教学者・楊文会の影響のもと、仏教にも傾倒していた 変法運動の時期には、当時最先端の思想である社会進化論の紹介も行われた。とりわけ、天津で発行された『国聞報(中国語版)』では、社会進化論者T.H.ハクスリーの諸論文が、厳復の翻訳を通じて連載された。1898年には、それらの連載論文を含む書籍『天演論(中国語版)』が発行され、後世の胡適らに影響を与えた。 変法運動の時期には、女性解放運動(中国におけるフェミニズム)の草分けにあたる運動も展開された。とりわけ、上海で結成された「女学会」の会報『女学報』では、女性教育や女性参政権・男女平等について発信するとともに、女性編集者を一個人としてフルネームで記名した。あるいは、変法運動の前から既に、プロテスタントの宣教師やアリシア・リトル(英語版)(リトル夫人)によって纏足廃止運動が展開されていた。 変法運動の担い手の多くは、日本の明治維新を模範としていた。とりわけ黄遵憲は、1877年に日本に清朝の公使館が開設された際に参賛官として訪日しており、そのときの見聞をもとに『日本国志』を著している。同書では、明治維新の分析や、頼山陽の『日本外史』を参照した日本史の叙述が行われている。『日本国志』は、1877年に完成して総理衙門や李鴻章・張之洞に贈られたが、その時は必ずしも話題にならなかった。一方で、1895年に梁啓超が序文をつけて出版すると、日清戦争により日本への関心が高まっていたこともあり話題になった。1898年の第六上書では、康有為が『日本国志』をもとに著した『日本変政考』が添付された。なお、明治維新だけでなくピョートル1世のような啓蒙専制君主も模範とされており、同じく第六上書では『大彼得変政記』(大ピョートル変政記)も添付されている。 変法運動が進展するなか、中央政府に先立って、湖南省の地方政府において改革が実践される。その湖南の改革を担った官僚として、陳宝箴・江標(中国語版)・黄遵憲・唐才常らがいる。また、湖南を代表する郷紳で、著名な儒学者でもある王先謙は、自身が院長を務める書院「嶽麓書院」で、上記の『時務報』を学生に推奨するとともに、1896年には他の郷紳とともに「時務学堂(中国語版)」を創設した。王先謙はさらに、湖南出身の譚嗣同の斡旋で梁啓超を湖南に招聘し、1898年には時務学堂を拠点とする学会「南学会」を結成する。この南学会において、梁啓超らは纏足廃止や議会開設などの言論を発信した。しかしながら、同じく湖南の郷紳で儒学者の葉徳輝らは、そのような梁啓超の言論に反発し、伝統儒学の立場から批判を展開した。そのような葉徳輝を含む変法批判者たちの言論は、後に『翼教叢編(中国語版)』として書物にまとめられた。
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