変法自強運動と戊戌の政変とは? わかりやすく解説

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変法自強運動と戊戌の政変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:01 UTC 版)

西太后」の記事における「変法自強運動と戊戌の政変」の解説

日清戦争敗北後光緒21年1895年)、技術的な改革にすぎない洋務運動一線を画し体制的改革推進する変法運動起きた変法派共感する光緒帝は、明治維新倣って政治・行政制度の改革目指し康有為梁啓超らを登用して1898年体制抜本改革宣言した。これを戊戌の変法(別名戊戌維新変法自強運動百日維新)という。 西太后当初改革見守る姿勢とっていた。しかし、急速かつ急進的な改革に対して親貴や軍機大臣含めた守旧派高官官僚の間に不満が高まっていった。多く官僚士大夫康有為孔子改制説などに賛同せず、馮桂芬張之洞のより穏健な改革論を支持した変法運動支持基盤があまりなく、広い支持を得ることはできなかった。もともと張之洞康有為西洋文明精神中国古典のなかに示されているという附会論者であり、「中学は体であり、西学は用である」という中体西用論をとっており、康有為思想は洋務派の思想大差はなかった。だが、康有為孔子改制論や孔教国教化運動当時知識人からは「異端邪説」と見られ守旧派穏健改革派のみならず光緒帝側近である帝党派大官翁同龢孫家鼐変法派内部からも反発を受ける結果となった西太后再々度の訓政を企図すると、側近栄禄直隷総督兼北洋大臣任命して首都近郊の軍と北洋軍を統括させた。光緒帝側もこれに対抗して改革好意的な袁世凱候補侍郎抜擢して新建陸軍練兵事務に当たらせた。西太后派と変法派緊張が高まるなかで、変法派は軍を握る栄禄殺害して西太后のいる頤和園軍隊包囲する計画立て譚嗣同袁世凱訪ね計画参加するように持ち掛けた袁世凱栄禄面会した際、変法派頤和園包囲計画が既に露見していると思い保身のため栄禄変法派計画の詳細密告した西太后宮中乗り込みクーデターにより再々政権奪い変法派の主要メンバー処刑、さらに光緒帝拘束して中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉し三度目垂簾聴政開始した戊戌の政変)。この結果康有為梁啓超といったリーダー格は日本へ亡命したが、康有為の弟や譚嗣同を含む6人が処刑された。彼らを「戊戌六君子」という。わずか3か月あまりで西太后権力の座返り咲いたことになる。西太后権力の座返り咲くと、光緒帝廃立すべく、端郡王載漪(さいい)の子溥儁(ふしゅん)を大阿哥に擁立した己亥の建儲)。ただ光緒帝廃立諸外国反対により実行できず、西太后意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶものなき権力者ありながらも、列強国には譲歩せねばならないことが多く、彼女は憤懣蓄積させていった。これが後の義和団支持へとつながっていくことになる。

※この「変法自強運動と戊戌の政変」の解説は、「西太后」の解説の一部です。
「変法自強運動と戊戌の政変」を含む「西太后」の記事については、「西太后」の概要を参照ください。

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