変法自強運動と戊戌の政変
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日清戦争敗北後の光緒21年(1895年)、技術的な改革にすぎない洋務運動と一線を画し、体制的な改革を推進する変法運動が起きた。変法派に共感する光緒帝は、明治維新に倣って政治・行政制度の改革を目指した康有為・梁啓超らを登用して、1898年に体制の抜本改革を宣言した。これを戊戌の変法(別名戊戌維新、変法自強運動、百日維新)という。 西太后は当初改革を見守る姿勢をとっていた。しかし、急速かつ急進的な改革に対して親貴や軍機大臣を含めた守旧派の高官と官僚の間に不満が高まっていった。多くの官僚・士大夫は康有為の孔子改制説などに賛同せず、馮桂芬や張之洞のより穏健な改革論を支持した。変法運動は支持基盤があまりなく、広い支持を得ることはできなかった。もともと張之洞と康有為は西洋文明の精神は中国古典のなかに示されているという附会論者であり、「中学は体であり、西学は用である」という中体西用論をとっており、康有為の思想は洋務派の思想と大差はなかった。だが、康有為の孔子改制論や孔教国教化運動は当時の知識人からは「異端邪説」と見られ、守旧派や穏健改革派のみならず光緒帝の側近である帝党派大官の翁同龢、孫家鼐や変法派内部からも反発を受ける結果となった。 西太后は再々度の訓政を企図すると、側近の栄禄を直隷総督兼北洋大臣に任命して首都近郊の軍と北洋軍を統括させた。光緒帝側もこれに対抗して改革に好意的な袁世凱を候補侍郎に抜擢して新建陸軍の練兵事務に当たらせた。西太后派と変法派の緊張が高まるなかで、変法派は軍権を握る栄禄を殺害して西太后のいる頤和園を軍隊で包囲する計画を立て、譚嗣同は袁世凱を訪ね計画に参加するように持ち掛けた。袁世凱は栄禄と面会した際、変法派の頤和園包囲計画が既に露見していると思い、保身のため栄禄に変法派の計画の詳細を密告した。西太后は宮中に乗り込みクーデターにより再々度政権を奪い変法派の主要メンバーを処刑、さらに光緒帝を拘束して中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌の政変)。この結果、康有為や梁啓超といったリーダー格は日本へ亡命したが、康有為の弟や譚嗣同を含む6人が処刑された。彼らを「戊戌六君子」という。わずか3か月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたことになる。西太后は権力の座に返り咲くと、光緒帝を廃立すべく、端郡王載漪(さいい)の子溥儁(ふしゅん)を大阿哥に擁立した(己亥の建儲)。ただ光緒帝の廃立は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶものなき権力者でありながらも、列強国には譲歩せねばならないことが多く、彼女は憤懣を蓄積させていった。これが後の義和団支持へとつながっていくことになる。
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