修改築とは? わかりやすく解説

修改築

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 14:13 UTC 版)

聖デイヴィッド大聖堂」の記事における「修改築」の解説

18世紀末ウェールズ建築家ジョン・ナッシュは、西側正面復元し200年前破損修復するよう依頼された。1793年改築されその様式は、ゴシック調初期ゴシック・リヴァイヴァル建築)であり、その後西正面のはざま飾り再利用するため、セント・メアリーズ・カレッジの礼拝堂の窓の一部壊したことが明らかになるなど、彼の仕事はすぐに低水準であることが判明した半世紀のうちにナッシュ西正面崩れるようになり、1862年から1877年にかけて建物全体ジョージ・ギルバート・スコットにより修復された。1901年には聖母礼拝堂英語版)が息子のジョン・オルドリッド・スコット(英語版)のもと、一般寄付により修復され、東の礼拝堂は、1900年から1910年にかけて、メイドストーン伯爵夫人 (Countess of Maidstone) の遺産により復元された。 大聖堂は、ウェールズにあるすべての教会と同様、1923年国教会廃止痛手受けた。セント・デイヴィッズ教区英語版)は、新しくスウォンジー・ブレコン教区英語版)を構成するため、ブレコン大執事区 (Archdeaconry of Brecon) を撤廃することでより小規模になった。また一方、この地の治め教区広域残して、セント・デイヴィッズは教区中心地として衰退し始め、その中心からかけ離れていった。16世紀以来主教居住カーマーゼンにあったが、現在、本部中心大聖堂から教区最大の町に移っている。 1950年代に師カール・ウィットン=デイヴィス (Carl Witton-Davies) が大聖堂主任司祭 (dean) に任命された。30歳代で任命され彼の推進的な構想や行動力は、オックスフォード大執事 (Archdeacon of Oxford) の昇任思わせるようないくつかの提言示したものの束の間に終わった。しかし、教会に残る彼の任期によりその地位を退かなかった。大聖堂が再び活力をもち始めると、セント・デイヴィッズへの有名なウェールズ青年巡礼 (Cymry'r Groes) が教会の礼拝生活へと多くの者を導きウェールズ教会良き聖職者10年提供した1960年代大聖堂教区利用および美術展詩の朗読会の場として使用するための大聖堂会館として、セント・メアリーズ・カレッジの修復見られた。それは1966年主教エドウィン・モリス (Edwin Morris) によって献呈され、その第1回記念行事は、バンゴール教区英語版)の主教代理務めた有名な詩R・Sトーマス英語版)による詩の朗読であった1980年代には大聖堂の歴史公式行事数多く行われた1981年ウェールズ公チャールズ大聖堂奉献800周年式典出席したまた、1982年洗足木曜日女王エリザベス2世大聖堂において王室洗足式英語版)の硬貨 (Maundy Coin) を分配した。これは、その式典初めイングランドの外で執り行なわれたものであった1989-1990年には聖デイヴィッド没後1400周年が、ウェールズ大主教英語版)でセント・デイヴィッズ教区主教でもあったジョージ・ノークス(英語版)の主催により行なわれた。その後イギリス政府はセント・デイヴィッズに「シティ」の称号復帰決定し1995年6月1日女王エリザベス2世により正式に授けられた。 1994年主任司祭任命されたウィン・エヴァンス(英語版)の前に多く課題累積していた。新しオルガンがどうしても必要であり、そして西側正面大規模な修復求められた。その時期、大聖堂では鐘塔内にビジターセンター設けてその将来性に投資することや、鐘を8口から10口に増やして鐘の音大きくすること、また、大聖堂回廊の「再建」ないし補完により、大聖堂聖歌隊教区委員会建物教育室、教区用の部屋、それに初期修道院想起させるような食堂(リフェクトリー、refectory)なども思案された。最初事業西側正面修復であり、1998-2001年になされ、それには当初採石場として再開されたケアバーディー湾 (Caerbwdi Bay) の石が使用された。オルガンはハリソン・アンド・ハリソン(英語版)により、再建される時期に間に合うよう、1998年9月解体完了した2000年完成したオルガンは、同年10月15日奉納された。 一連の鐘 (ring of bells) は、2口がロンドンのホワイトチャペル・ベル・ファウンドリー(英語版)により鋳造され2001年3月1日American Friends of St Davids Cathedral からの進物として奉納された。10口の鐘の残る8口の鐘は、1928年ロンドンMears & Stainbank で鋳造されたものである。鐘は1730年より大聖堂中央塔掛けられておらず、1931年から、古来ゲートハウス(門塔)であるポルス・ア・トゥルにつながる13世紀鐘楼 (Bell Tower) にある。 鐘の詳細重量直径鋳造鋳造所lbkginmm1 591 268 F♯ 2000 Whitechapel Bell Foundry 2 611 277 E 2000 Whitechapel Bell Foundry 3 638 289 D 30.00 762 1928 Mears & Stainbank 4 667 303 C♯ 31.00 787 1928 Mears & Stainbank 5 797 362 B 33.00 838 1928 Mears & Stainbank 6 955 433 A 35.75 908 1928 Mears & Stainbank 7 1,207 547 G 39.00 991 1928 Mears & Stainbank 8 1,311 595 F♯ 41.00 1,041 1928 Mears & Stainbank 9 1,934 877 E 46.00 1,168 1928 Mears & Stainbank 10 2,797 1,269 D 52.00 1,321 1928 Mears & Stainbank 回廊教育センター食堂(リフェクトリー)として再構築する大作業は2003年始まり2007年5月完成した2009年、ウィン・エヴァンスが主任司祭から主教へと移り追ってジョナサン・リーン(英語版)が主任司祭任命された。 2012年聖デイヴィッドの日(英語版)(セント・デイヴィッズ・デイ)である3月1日に、復元され聖デイヴィッド祠堂除幕式および再奉納主教ウィン・エヴァンスにより行われ5日間の祝祭開催された。

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