修改築
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「聖デイヴィッド大聖堂」の記事における「修改築」の解説
18世紀末、ウェールズの建築家ジョン・ナッシュは、西側正面を復元し、200年前の破損を修復するよう依頼された。1793年に改築されたその様式は、ゴシック調(初期ゴシック・リヴァイヴァル建築)であり、その後、西正面のはざま飾りに再利用するため、セント・メアリーズ・カレッジの礼拝堂の窓の一部を壊したことが明らかになるなど、彼の仕事はすぐに低水準であることが判明した。半世紀のうちにナッシュの西正面は崩れるようになり、1862年から1877年にかけて建物全体がジョージ・ギルバート・スコットにより修復された。1901年には聖母礼拝堂(英語版)が息子のジョン・オルドリッド・スコット(英語版)のもと、一般の寄付により修復され、東の礼拝堂は、1900年から1910年にかけて、メイドストーン伯爵夫人 (Countess of Maidstone) の遺産により復元された。 大聖堂は、ウェールズにあるすべての教会と同様、1923年の国教会制廃止の痛手を受けた。セント・デイヴィッズ教区(英語版)は、新しくスウォンジー・ブレコン教区(英語版)を構成するため、ブレコン大執事区 (Archdeaconry of Brecon) を撤廃することでより小規模になった。また一方、この地の治める教区の広域を残して、セント・デイヴィッズは教区の中心地として衰退し始め、その中心からかけ離れていった。16世紀以来、主教の居住はカーマーゼンにあったが、現在、本部や中心は大聖堂から教区で最大の町に移っている。 1950年代に師カール・ウィットン=デイヴィス (Carl Witton-Davies) が大聖堂の主任司祭 (dean) に任命された。30歳代で任命された彼の推進的な構想や行動力は、オックスフォード大執事 (Archdeacon of Oxford) の昇任を思わせるようないくつかの提言を示したものの束の間に終わった。しかし、教会に残る彼の任期によりその地位を退かなかった。大聖堂が再び活力をもち始めると、セント・デイヴィッズへの有名なウェールズ青年巡礼 (Cymry'r Groes) が教会の礼拝生活へと多くの者を導き、ウェールズの教会に良き聖職者を10年間提供した。 1960年代、大聖堂教区の利用および美術展や詩の朗読会の場として使用するための大聖堂の会館として、セント・メアリーズ・カレッジの修復が見られた。それは1966年に主教エドウィン・モリス (Edwin Morris) によって献呈され、その第1回記念行事は、バンゴール教区(英語版)の主教代理を務めた有名な詩人R・S・トーマス(英語版)による詩の朗読であった。 1980年代には大聖堂の歴史的公式行事が数多く行われた。1981年、ウェールズ公チャールズが大聖堂の奉献800周年の式典に出席した。また、1982年の洗足木曜日、女王エリザベス2世が大聖堂において王室洗足式(英語版)の硬貨 (Maundy Coin) を分配した。これは、その式典が初めてイングランドの外で執り行なわれたものであった。1989-1990年には聖デイヴィッド没後1400周年が、ウェールズ大主教(英語版)でセント・デイヴィッズ教区の主教でもあったジョージ・ノークス(英語版)の主催により行なわれた。その後、イギリス政府はセント・デイヴィッズに「シティ」の称号の復帰を決定し、1995年6月1日、女王エリザベス2世により正式に授けられた。 1994年、主任司祭に任命されたウィン・エヴァンス(英語版)の前には多くの課題が累積していた。新しいオルガンがどうしても必要であり、そして西側正面は大規模な修復が求められた。その時期、大聖堂では鐘塔内にビジターセンターを設けてその将来性に投資することや、鐘を8口から10口に増やして鐘の音を大きくすること、また、大聖堂の回廊の「再建」ないし補完により、大聖堂聖歌隊や教区委員会の建物、教育室、教区用の部屋、それに初期の修道院を想起させるような食堂(リフェクトリー、refectory)なども思案された。最初の事業は西側正面の修復であり、1998-2001年になされ、それには当初の採石場として再開されたケアバーディー湾 (Caerbwdi Bay) の石が使用された。オルガンはハリソン・アンド・ハリソン(英語版)により、再建される時期に間に合うよう、1998年9月に解体が完了した。2000年に完成したオルガンは、同年10月15日に奉納された。 一連の鐘 (ring of bells) は、2口がロンドンのホワイトチャペル・ベル・ファウンドリー(英語版)により鋳造され、2001年3月1日、American Friends of St Davids Cathedral からの進物として奉納された。10口の鐘の残る8口の鐘は、1928年にロンドンの Mears & Stainbank で鋳造されたものである。鐘は1730年より大聖堂の中央塔に掛けられておらず、1931年から、古来のゲートハウス(門塔)であるポルス・ア・トゥルにつながる13世紀の鐘楼 (Bell Tower) にある。 鐘の詳細鐘重量音直径鋳造年鋳造所lbkginmm1 591 268 F♯ 2000 Whitechapel Bell Foundry 2 611 277 E 2000 Whitechapel Bell Foundry 3 638 289 D 30.00 762 1928 Mears & Stainbank 4 667 303 C♯ 31.00 787 1928 Mears & Stainbank 5 797 362 B 33.00 838 1928 Mears & Stainbank 6 955 433 A 35.75 908 1928 Mears & Stainbank 7 1,207 547 G 39.00 991 1928 Mears & Stainbank 8 1,311 595 F♯ 41.00 1,041 1928 Mears & Stainbank 9 1,934 877 E 46.00 1,168 1928 Mears & Stainbank 10 2,797 1,269 D 52.00 1,321 1928 Mears & Stainbank 回廊を教育センターや食堂(リフェクトリー)として再構築する大作業は2003年に始まり、2007年5月に完成した。2009年、ウィン・エヴァンスが主任司祭から主教へと移り、追ってジョナサン・リーン(英語版)が主任司祭に任命された。 2012年、聖デイヴィッドの日(英語版)(セント・デイヴィッズ・デイ)である3月1日に、復元された聖デイヴィッドの祠堂の除幕式および再奉納が主教ウィン・エヴァンスにより行われ、5日間の祝祭が開催された。
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