修教館出仕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:16 UTC 版)
安政2年(1855年)2月、藤木竹窓の推挙により、佐渡奉行内藤茂之助忠辰に学問所儒者として取り立てられ、相川に移った。11月、3人扶持の待遇を得、家族を迎えて中京町に仮寓し、塾を開いた。安政5年(1858年)7月27日、南沢からの大火で罹災し、羽田町、後に江戸沢に移った。安政6年(1859年)9月、丸岡南陔、甲賀達斎、笠野棟斎、岩佐潮瀕、大平菰塘、吉岡水哉等と三白吟社を結んだ。 文久元年(1861年)4月、奉行岡松伊予守久徴、閣老内藤紀伊守により学問教授方に任命された。元治元年(1864年)5月病に遭い、100日の休暇を得て江戸に行き、司馬凌海の勧めで松本良順の治療を受け、また芳野金陵の紹介で安井息軒、塩谷宕陰、中村敬宇、亀田鴬谷等と交流し、8月治癒して江戸を出発し、上野国草津温泉を経て、9月初旬に帰島した。
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