大聖堂の歴史とは? わかりやすく解説

大聖堂の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 00:36 UTC 版)

シャルトル大聖堂」の記事における「大聖堂の歴史」の解説

ロマネスク様式基礎とする新し大聖堂の建築始まったのは1145年であったが、1194年大火事で町全体聖堂西側前方部分以外が焼き尽くされたため、この残った部分のみ初期ゴシック様式となった大聖堂本体再建1194年から1220年の間に行われ中世大聖堂としては著しく短期間完成へと至った当初土地面積10,875m2であった大聖堂の建築最上級のもので、その高く聳え立つ通路きめ細かい彫刻見て熱情溢れない建築歴史家は殆どいないとも言われるほどである。これはシャルトル大聖堂フランスにおける全てのゴシック建築大聖堂で最も素晴らしいものの中の一つであるということ表している。遠くからはうねる小麦畑の上徘徊する様に見え徐々に近づくと街が大聖堂が立つ丘の周りへと群がっているのが見え始める。対照的な二つ尖塔は、片方1140年以来立ち続ける105mの質素な角錐と、113mの高さで古い角錐の塔を越え16世紀初頭後期ゴシック・フランボワイアン様式火焔式)の塔から成り、外を飛梁複合棟で囲まれる中、淡い緑色屋根突き抜けて高く聳え立っている。 876年以来大聖堂は、伝承では聖母マリアのものとされる「サンクタ・カミシア(Sancta Camisia、聖衣)」というチュニック所蔵している。これは十字軍イスラエル遠征の間、カール大帝により大聖堂への贈物としてえられた聖遺物考えられている。実際には、聖遺物シャルル2世からの贈物であり、その生地シリアから来たもので紀元1世紀代に編まれたものである主張されている。何百年もの間、シャルトル大聖堂聖母マリア巡礼者達の極めて重要な拠点とされ、忠実な信者達は今日になって聖衣物を讃えるため世界から訪れる。 12世紀ごろ、教会は本来巡礼者のための教会であった聖堂周囲行われた縁日には多く巡礼者参列しており、それは聖母マリア祝祭日同時に開かれるめだった巡礼者こうした催し物に集まるのは、聖母マリアの身に着けていた聖衣一目見ようとする意図ももちろんあった。縁日が行われるのは聖堂のちょう外側で、聖堂にすぐ近く教会管轄にあった街道広場連なって設けられた。縁日中には「潔めの祝日」、「受胎告知祭日」、「聖母被昇天祭」、「聖母マリア誕生祭」の4つ大きな聖母マリア祭日があった。こうした縁日主な呼び物はやはり聖母マリアのサンクタ・カミシアであり、街の活気聖衣頼っていた。 シャルトル大聖堂シャルトルの街で最も重要な建造物であった。かつて聖堂経済中心であり最も著名なランドマークであって今日市営建物提供されるあらゆる活動中心的な役割果たしている。中世において、大聖堂時に北端側で織物燃料野菜肉類南端側と、異なったバシリカ入り口で違う品目を売る市場の場として機能していた。時には聖職者聖堂の中で売買止めさせようとしたこともあったが、無駄だったとも言われている。ワイン売り地下聖堂でのワイン販売禁止されたが、外で売れば課せられる税金避け教会身廊取引をすることが許されていた。しかし様々な職業労働者大工石工などの仕事探して聖堂集まってくるようになり、更には食べ物すら聖堂で売ることを許された。また、一度町中麦角中毒蔓延して多く犠牲者出たことがあり、その時北側地下聖堂患者手当てするための病院となった現存するシャルトル大聖堂にはフランスゴシック調の傑作品が築かれているが、これは火事以前からあった彫刻品群焼失したためである。(「王の門」と呼ばれる西正面ファサード彫刻群例外である。)1020年大聖堂重要な財産焼失した後(これに先立ち、他の教会部分も煙で消滅している)、巨大な地下聖堂を含む素晴らしロマネスク様式バシリカフュルベール司教Bishop Fulbert)、次いでジョフロワ・ド・レーヴ(Geoffroy de Lèves)の指揮のもとに建設された。しかし、町全体焼き尽くした1134年大火事残存した後も、1194年6月10日から11日未明照明引き起こした炎がまたもや聖堂襲い西側の塔とそれと地下聖堂の間にあるファサードを残すのみとなってしまった。 この火事人々聖遺物であるサンクタ・カミシアが完全に焼失したものと思い絶望した。ところが3日後、司祭達が火事起こった際に聖衣鉄製落とし戸へ鍵を閉めて格納していたことがわかり、宝物庫無傷のまま見つかったその後ローマ教皇特使であったピサのメリオール枢機卿は、サンクタ・カミシアが火事乗り越えたのは聖母マリア自身からの1つサインであり、さらに言うならば大聖堂シャルトル建てられるべくして建てられたのだというお告げでもあると人々説いたその後の再建にはフランス中から寄付集まり大聖堂調和のとれた外観保存するため、名前不詳建築家によって提案され設計図用いてほぼすぐに始められた。この建設計画でかなり興味深いのは、8km 離れた地元採石場から、街の人々が自ら進んで必要な石を運ぶため集まったという事実である。 作業教会身廊部分から取り掛かられ、1220年頃には主だった建物組み立て完了して、古い地下聖堂同じく火事生き延びた12世紀中頃威厳ある正門が、新設され建物組み入れられた。設計図は上から見て十字型建物で、128m に渡る身廊南北に短い翼廊があった。東端には5つ半円形チャペル放射状伸びる回廊曲線描いていた。当初の計画により、大聖堂の高い部分大規模な控え壁あしらうよう設計され、これらが極度に高く聳え立ち、フランスで当時最も高かった天井重さ支えていた。聖堂加えられ新し教会部分ランあるよう初期ゴシック調大聖堂同じく長方形スペース4つの横張りヴォールト使用したものであったこうした複合の窓間壁からその上部を越え対角線を横切る丸天井リブまでの支柱骨格構造が、上部ステンドグラス作品を遮らず聖堂高く保っていた。また1260年10月24日大聖堂はついにルイ9世王家の手渡った内観外貌気品からさえも予期できないほど驚異的なのである。とても広い身廊は36m の高さを誇り西端からは東側にあるアプス荘厳なドームが完全に眺められる劇的に聳える円柱群は平坦な土台から天井アーチ方向まで向かい人々の目をアプス壮大なクリアストリーへ導く。 華美極めたステンドグラスの窓からは、鮮やかな色彩フロアへと飛散する。13世紀初頭からさかのぼりステンドグラス作品大部分16世紀宗教戦争での損失免れている。1753年の「近代化」で道を誤った聖職者によって作品一部持ち去られてしまったものの、大聖堂にあるステンドグラス作品群世界中世ステンドグラスの完全なコレクション一部占めるとも言われる。こうして元来あった186作品ステンドグラス窓のうち152作品残った。これらのステンドグラス窓は、「シャルトルブルー」と讃えられる非常に鮮やかな青い色が特に有名であり、とりわけ聖母マリアその子描写したものや、アダムとイブ物語描いた失楽園ノアの箱舟名高い。またこれら作品中にはヨーロッパで最初の手押し車を描いたものもある。第二次世界大戦中、ほとんどのステンドグラス聖堂から移されドイツ軍爆撃から保護するために周辺地方一帯保管された。その後戦争の終結と共に窓は隠されていた場所から取り出され、再び元の位置へと戻された。 フランス王女ブランシュ・ド・カスティーユ寄与され北側翼廊にあるバラ描いた窓のように、幾つもステンドグラス窓は王家捧げられた。また窓は王家だけに留まらず国王地方領主、そして商人などあらゆるタイプ人々の手渡った長い長方形ランセット窓(尖頭窓)の中には、青い背景フランス王家の紋章である黄色百合の紋章フラ・ダ・リ fleur de lys)が描かれたものや、赤い背景黄色の城が表れたものなど王室影響明らかなものもある。 ドアベランダには剣を握る像や十字架、本や商売道具などを表した中世彫刻並べられ彫刻表現今日でも700年前に初め彫られた時となんら変わりなくはっきりと現れている。西側ファサードにある彫刻キリスト天国への昇天彼の生涯聖人使徒からのエピソード、更に聖母マリア膝元抱えられるキリストなど宗教的場面描いたのである。それら宗教的彫刻の下には、この西側入り口が「王の扉口」として知られていることから、国王王妃彫刻群建っている。こうした彫刻旧約聖書人物基づいたのである一方造られ時点実在していた王や妃を描いたものと考えられた。王族表した像が宗教的彫像よりやや下の位置設けられているが、これは未だに王と神との間にある結びつきを密接に含意する意味合いがあるとされる。また彫刻王族権威王族たちがキリスト関連する人物と近いことをも示しており、彫像が神によって命じられその場所に置かれたような印象与える。加えてこの王の扉口右側アーキボルト姿を現す7人の文芸人の彫刻は、シャルトルにある学校表している。 シャルトル大聖堂フランス革命期で破壊または略奪遭ったことがなく、数多く行われてきた修復もその華麗な美しさ作り変えてしまうことはなかった。大聖堂はいつの時代不変のままであり、ゴシック芸術勝利とも言えよう。 1979年大聖堂ユネスコの世界遺産登録された。 また中世では大聖堂重要な聖堂学校としても機能していた。カール大帝9世紀フランス市民のために教育システム導入求めたが、学校新設するのが困難で経費かかった為、既に存在していた設備利用した方が簡単だったのである。そのため大帝大聖堂修道院双方学校整備命じた。この聖堂学校教育中心となる場所として結果的に修道院学校へと受け継がれた。11世紀には教育システムシャルトル司教のような大聖堂聖職者たちによって統制され聖堂自体学校象徴するようになった多くフランス聖堂学校専攻を置き、シャルトル大聖堂論理学正確に自由学芸septem artes liberalesの四科quadrivium、すなわち算術arithmetica幾何学geometrica、音楽musica天文学astronomia)の研究有名になった。(この通称、「シャルトル学派」と呼ばれるヘンリー・アダムス唱えた説には現在の研究では異論余地がある。)このシャルトル大聖堂教授した新し論理学は、パリよりもかなり進んでいると多く人々から評価された。シャルトル大聖堂教育受けた人物の一人にはイギリス哲学者並びに作家であるソールズベリジョンJohn of Salisbury)がおり、後にシャルトル大聖堂司教となった

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