大聖堂や礼拝堂で起こった出来事
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「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」の記事における「大聖堂や礼拝堂で起こった出来事」の解説
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂をめぐる出来事として最も著名なもののひとつは、1478年のパッツィ家の陰謀である。パッツィ家とメディチ家の対立が激化し、その結果、パッツィ家はロレンツォ・イル・マニーフィコの殺害を計画した。4月26日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の復活祭ミサでパッツィ家に組する暗殺者がメディチ兄弟を襲った。兄ロレンツォはかろうじて逃れたが、弟ジュリアーノは刺殺された。暗殺者らは市民に反乱を呼びかけるも失敗。暗殺者だけでなく、パッツィ家当主をはじめ100人近くが捕らえられて、死刑になった。容赦の無い処断に、パッツィ家と結んでいた時の教皇シクストゥス4世を激怒させ、教皇庁とフィレンツェの間で二年におよぶパッツィ戦争が起こった。 またあるとき、聖ジョヴァンニ洗礼堂に集った群集が争い、そのさなかに小児が洗礼を授ける大理石の水盤にはまってしまった。溺れ死にかけたところをダンテが斧をふるってその水盤を破壊し、子供の命を助けた。しかしその後、水盤を壊したことで非難されたためか、『神曲』「地獄篇」中でそのことを弁解している(地獄篇第十九歌)。 日本人観光客が聖堂に落書きをし、問題視された例がある。2008年2月18日、岐阜市立女子短期大学の学生が研修旅行で訪れた際、大理石の壁に名前などを落書きをしたことが、この落書きを見つけた日本人観光客からの訴えにより判明した。この事件では学生6人と引率教員2人が学長厳重注意処分にされている。なお、この事件の対応に対してイタリアのマスコミは、落書きだらけの自国の街並みや文化財の惨状を恥じるとともに、自国の学生の行為を恥じ告発する日本人観光客の潔癖さと、迅速な学校側の処分を賞賛とともに伝えた。また、修復費用については不要である旨が大聖堂より大学側に伝えられている。 2008年3月13日、京都産業大学2年の学生3人が観光旅行で訪れた際、大聖堂最上階の柱等に本人の名前や「京都産業大学」と油性ペンで落書きをした事が上記短大と同様に判明した。この事件で3人は処分を受けている。 2008年6月30日、常磐大学高等学校の野球部の監督が2006年に自分と妻の名前を落書きしていた事が発覚し、同校はこの監督を解任。同校は前年度の全国高等学校野球選手権大会の茨城県大会で準優勝するなどの強豪校である。
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