大聖堂の建築
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1868年、安徽、江蘇省の2省の多くの地域で教会の弾圧が発生し、神父と教会は襲撃に遭遇した。甚だしいことに、中国と外国の関係が比較的穏やかな上海の通りでも外国人を敵と見なす宣伝が現れた。イエズス会のフランス人宣教師たちは深い不安を感じ、江南代牧区イエズス会会長谷振声神父は佘山に行ったときに、六角亭の聖母像の前に跪(ひざまず)き、「江南代牧区がもし無事に危機を過ごし、危険な状態が平穏な状態に戻った暁には山上に大聖堂を建てます」という願をかけた。9月に谷振声は教区司祭に公告を出し、彼等に大聖堂を建てて一日も早く聖母の庇護に感謝するために信徒の寄付を募るよう要求した。 佘山大聖堂はイエズス会の馬歴耀修道士見習いが建築の設計の責任を持ち、1871年5月24日(キリスト信者の助け手聖母の祝日)に起工式が挙行された。郎懐仁代牧司教は、6,000名もの信徒が参加した野外荘厳ミサを捧げた。数多くの巡礼した信徒が労働奉仕に参加し、重くてかさばる建築材料を平地から山頂まで運んだ。1873年4月15日までにギリシャ式の大聖堂が完工し、郎怀仁が来て聖堂を祝福し、同時に山の中腹から山頂まで「之」の字形の十字架の道行を造成し、それぞれの曲がり角に14個の苦路亭を建造した。同年の5月1日と24日、郎懐仁は再び佘山に赴き、巡礼の典礼を司式した。当時、約10,000から15,000もの人が巡礼に来た。これより佘山聖母は江南代牧区の特别な保護者となり、同年五月は佘山史上の最初の聖母月と呼ばれることになった。 1894年、山の中腹に500余人を収容できる中国の伝統的な風格のある中山聖母堂が建て直された。中堂正門の両側にすなわち右の一幅には「小堂筑山腰、且憩片刻休孝子礼」、左の一幅には「大殿臨峰頂、再登幾級求慈母恩」という対句が刻まれた。門前には1,000人を収容出来る広場があり、欄干や石の腰掛があって、信徒たちの休息や景色を見るのに供され、西側には三聖亭(イエス聖心亭、聖母亭、ヨセフ亭)が建てられた。
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