大聖堂の建築とは? わかりやすく解説

大聖堂の建築

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 15:22 UTC 版)

佘山扶助者聖母大殿」の記事における「大聖堂の建築」の解説

1868年安徽江蘇省の2省の多く地域教会弾圧発生し神父教会襲撃遭遇した甚だしいことに、中国外国の関係が比較穏やかな上海通りでも外国人を敵と見なす宣伝現れた。イエズス会フランス人宣教師たちは深い不安を感じ江南代牧区イエズス会会長谷振声神父は佘山に行ったときに、六角亭の聖母像前に跪(ひざまず)き、「江南代牧区がもし無事に危機過ごし危険な状態平穏な状態に戻った暁には山上大聖堂建てます」という願をかけた。9月に谷振声は教区司祭公告出し彼等大聖堂建てて一日早く聖母庇護感謝するために信徒寄付募るよう要求した。 佘山大聖堂イエズス会の馬歴耀修道士見習い建築設計責任持ち1871年5月24日キリスト信者助け聖母祝日)に起工式挙行された。郎懐仁牧司教は、6,000名もの信徒参加した野外荘厳ミサ捧げた数多く巡礼した信徒労働奉仕参加し重くかさばる建築材料平地から山頂まで運んだ1873年4月15日までにギリシャ式の大聖堂完工し、郎怀仁が来て聖堂祝福し同時に山の中腹から山頂まで「之」の字形十字架の道行を造成しそれぞれの曲がり角に14個の苦路亭を建造した同年5月1日24日、郎懐仁は再び佘山に赴き、巡礼典礼司式した。当時、約10,000から15,000もの人が巡礼に来た。これより佘山聖母江南代牧区の特别な保護者となり、同年五月は佘山史上最初聖母月呼ばれることになった1894年、山の中腹500余人収容できる中国伝統的な風格のある中山聖母堂が建て直された。中堂正門両側にすなわち右の一幅には「小堂山腰、且憩片刻休孝子礼」、左の一幅には「大殿臨峰頂、再登幾級求慈母恩」という対句刻まれた。門前には1,000人を収容出来広場があり、欄干や石の腰掛があって、信徒たちの休息景色を見るのに供され西側には三聖亭(イエス聖心亭、聖母亭、ヨセフ亭)が建てられた。

※この「大聖堂の建築」の解説は、「佘山扶助者聖母大殿」の解説の一部です。
「大聖堂の建築」を含む「佘山扶助者聖母大殿」の記事については、「佘山扶助者聖母大殿」の概要を参照ください。

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