極東型の「上からの近代化」だった日本では、米騒動が二重構造に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 22:38 UTC 版)
「米騒動」の記事における「極東型の「上からの近代化」だった日本では、米騒動が二重構造に」の解説
日本は欧米との格差が大きく、古代的天皇制まで持ち出さねばならなかった維新は、きわどい極東型の「上からの近代化」だった。そのため米騒動は無くならないばかりか、新旧2つの構造を持つに至った。特権商人が廃藩置県・地租改正によって全国で一斉に消え、米の積出しが目立つ米移出地帯と歴史性の強い地域でだけ近世型の街頭騒擾が続き、他方で移植された産業革命・諸制度で生まれた工場・鉱山・都市では近代型米騒動(賃上げ騒擾・消費運動)が急速に増加していった。しかし米騒動といえば近世来の思い込みで街頭型ばかりを見て近代型を見落としていたため、日本近代の米騒動はいつも北陸・東北南部など移出地帯で始まるものと誤認されていた。井上清の近代史のテキストなどもそのように間違っている。事実、何か月も前から近代型米騒動は始まっていたのであり、殊に日清戦争以後はそれらの方が件数で勝り、日露戦後には圧倒的に多かった。日本の米騒動は明治後半からは、労働者階級による近代型主導だったのである。
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