三五公司の事業<2>‐潮汕鉄道の経営とは? わかりやすく解説

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三五公司の事業<2>‐潮汕鉄道の経営

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/23 09:51 UTC 版)

対岸経営」の記事における「三五公司の事業<2>‐潮汕鉄道経営」の解説

1895年明治28年)の日清戦争以後日本中国大陸対し商工業進出をはかると同時に鉄道建設による利権確保図ろうとしていた。とりわけ福建省は、イギリス勢力弱く台湾対岸にあたるので、中国大陸における日本の鉄道建設計画最初目標になった鉄道技師小川資源は、官命帯び1899年明治32年)と1902年明治35年)に浙江福建広東各省調査行った。これにより、浙江省杭州から福建省福州廈門経由し広東省広州府に至る「東南海岸幹線」が計画された。この計画にあって、もっとも利益をあげ得るのは、汕頭潮州間の支線であった1903年明治36年)、広東省梅県出身客家張煜南をリーダーとする東南アジア華僑グループが、汕頭潮州鉄路潮汕鉄道)の敷設得た。張は、台湾籍の阿片商人である呉理卿と資金協力約束交わした後、「潮汕鉄道公司」を設立し200元の資本募集した持ち株割合は張煜南と謝栄光共有100万元、呉理卿と麗生(台湾籍)が共有100万元とされた。この呉から愛久澤潮汕鉄道情報を知ることになる。本鉄道敷設申請書において株式募集範囲中国人限られていたので、愛久澤麗生の名義100万元を出資した(呉は途中より潮汕鉄道出資より撤退)。この資金は、台湾総督府台湾罹災救助基金」より流用されている。潮汕鉄道には、イギリス興味示し始めていた。愛久澤建設請負契約調印急いだ1903年明治36年12月6日南洋より帰国した張煜南の乗る汽船香港到着するや、時を移さず船室内で調印行った。愛久澤は、契約書携えて直ち台湾渡り総督府民政長後新平報告した後藤は「(潮汕鉄道取得の)意外の成功驚喜する余り立って契約書類を拝して、我南清経営根拠成れりと絶叫された」とされる1904年明治37年4月愛久澤直哉建設請け負い5月には台湾総督府鉄道部技師佐藤謙之助らを派遣し測量工作をさせ、8月には実測完了した1906年明治39年)末2年余り工事期間を経て完了した三五公司直ち会社営業契約結んだ。これにより会社営業部門の実権三五公司が完全に掌握することになった

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