三五公司の事業<2>‐潮汕鉄道の経営
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1895年(明治28年)の日清戦争以後日本は中国大陸に対し、商工業の進出をはかると同時に鉄道建設による利権確保を図ろうとしていた。とりわけ福建省は、イギリスの勢力が弱く、台湾の対岸にあたるので、中国大陸における日本の鉄道建設計画の最初の目標地になった。鉄道技師の小川資源は、官命を帯び1899年(明治32年)と1902年(明治35年)に浙江、福建、広東各省の調査を行った。これにより、浙江省杭州から福建省福州、廈門を経由し広東省広州府に至る「東南海岸幹線」が計画された。この計画にあって、もっとも利益をあげ得るのは、汕頭‐潮州間の支線であった。1903年(明治36年)、広東省梅県出身の客家張煜南をリーダーとする東南アジア華僑グループが、汕頭‐潮州間鉄路(潮汕鉄道)の敷設権を得た。張は、台湾籍の阿片商人である呉理卿と資金協力の約束を交わした後、「潮汕鉄道公司」を設立し、200万元の資本を募集した。持ち株の割合は張煜南と謝栄光が共有で100万元、呉理卿と林麗生(台湾籍)が共有で100万元とされた。この呉から愛久澤は潮汕鉄道の情報を知ることになる。本鉄道敷設の申請書において株式募集の範囲が中国人に限られていたので、愛久澤は林麗生の名義で100万元を出資した(呉は途中より潮汕鉄道の出資より撤退)。この資金は、台湾総督府「台湾罹災救助基金」より流用されている。潮汕鉄道には、イギリスも興味を示し始めていた。愛久澤は建設請負契約の調印を急いだ。1903年(明治36年)12月6日南洋より帰国した張煜南の乗る汽船が香港に到着するや、時を移さず船室内で調印を行った。愛久澤は、契約書を携えて直ちに台湾に渡り、総督府民政長後藤新平に報告した。後藤は「(潮汕鉄道取得の)意外の成功を驚喜する余り、立って該契約書類を拝して、我南清経営の根拠成れりと絶叫された」とされる。1904年(明治37年)4月愛久澤直哉が建設を請け負い、5月には台湾総督府が鉄道部技師佐藤謙之助らを派遣し、測量工作をさせ、8月には実測を完了した1906年(明治39年)末2年余りの工事期間を経て完了した。三五公司が直ちに会社と営業契約を結んだ。これにより会社の営業部門の実権は三五公司が完全に掌握することになった。
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