三五公司のゴム園について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 06:34 UTC 版)
「マレー蘭印紀行」の記事における「三五公司のゴム園について」の解説
「三五公司マレー半島ゴム園群」も参照 本書は、現マレーシア、ジョホール州を流れるセンブロン川を三五公司のモーター船でさかのぼる場面から始まる(本書7ページ)。季節は、雨季の11月である。金子は、「三五公司ゴム栽培第一園の日本人クラブ」に、続いてスリメダンにある「三五公司第二ゴム園の日本人クラブ」にそれぞれ泊っている。第二ゴム園では、(三五公司)創業以来山暮らしというA氏が金子に語る場面もある(本書35ページ)。それによると「三五公司は、ゴム投資のユニバーシチといわれています。ゴム園経営者は、大概、三五公司出身といっていいですからな。三五公司は、はじめペンゲランを開墾しましたが、痩地なので、ここと、センブロンに主力をそそぐことになりました。センブロンが第一園、ここが第二園、ペンゲランが第三園となっています。(中略)三五公司が(日本の)ゴムでは筆頭です。三ケ所で、ほぼ三万エーカーを超えていますからな。三五公司が、そもそも、馬来のゴムに目をつけたのは、たいへん古い話で、清朝の末、澳門へ南清鉄道を敷く計画が第一革命のためだめになったときなのです。」と語っている。 三五公司とは、そもそも、台湾総督府が、いわゆる「対岸経営」の実行機関として1902年(明治35年)愛久澤直哉を首脳者として福建省廈門にて設立させたものである。いわゆる「対岸経営」とは、台湾島内治安維持のためと中国大陸南部地域への影響力をのばすためにおこなった経済活動である。三五公司は、表面上は日本と中国の合弁会社の形態をとっていたが、国家的色彩の強い機関であったとされる。この三五公司の二大事業が、福建省における樟脳の専売事業と、広東省汕頭と同潮州を結ぶ潮汕鉄道(ちょうさんてつどう)経営であった。この三五公司がマレー半島のゴムに目をつけたのは、A氏がのべるように第一革命(辛亥革命)のときよりもさらに古く、愛久澤直哉が1900年に阿片原料調査を嘱託され、インド、南洋に赴いたからであり、また潮汕鉄道の建設を機として東南アジアの有力華僑と接する機会に恵まれたからとの分析がある。1906年(明治39年)シンガポールの対岸ペンゲラン(Pengerang)においてゴム栽培農園を開始した。これは日本人による大規模ゴム農園経営の先駆とされる。このマレー半島ゴム園を経営する頃には三五公司も、国家的性格の強い機関から愛久澤の個人経営の企業に変わっていった。
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