清末の陽明学とは? わかりやすく解説

清末の陽明学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 03:38 UTC 版)

陽明学」の記事における「清末の陽明学」の解説

陽明学沈滞状況は、1840年アヘン戦争以降徐々に変化する。まず『海国図志』を著した魏源によって陽明学見直され初め康有為の師である朱次琦は「朱王一致」を再び唱えるなど陽明学復活の兆し見せるようになる。後に今文公羊学掲げ康有為自身吉田松陰の『幽室文稿』を含む陽明学研究したという。 下の日本の項目で述べるように陽明学日本に伝来して江戸時代以降日本史大きな足跡残した。特に明治維新思想的原動力として大きな影響及ぼしたといわれる明治となっても、三宅雪嶺が『王陽明』という伝記著して陽明学顕彰し、また陽明学国民道徳基礎求め雑誌陽明学』やその類似雑誌いくつも創刊された。 日清戦争以後明治日本清末知識人注目するうになると、すでに中国本土では衰微していた陽明学にも俄然注意向けられるようになった明治期中国からの留学生増加一途を辿るが、そうした学生達にもこの明治期陽明学熱が伝わり陽明学中国でも再評価されるようになる。「陽明学」という呼称が、中国伝わったのもこの頃であった清代禁書とされたこともあって、ほとんど忘れられていた李卓吾の『焚書』や『蔵書』は、明治期陽明学熱によって中国逆輸入されている。 中国における陽明学再評価に最も力があったのは、先に触れた康有為弟子梁啓超である。梁啓超1905年上海で『松陰文鈔』を出版するほど、陽明学奉じ吉田松陰称揚した。また同時書かれの『徳育鑑』や「論私徳」(代表作新民説』の一節)には、井上哲次郎の『日本陽明学派哲学』の影響見られるこうした傾向戊戌政変後に日本亡命し以降顕著となるが、それは彼が当時求めていた国民国家創出深く関係するまとまり欠いた「散砂」のような中国人々強く結合させるためには、国民精神国民道徳不可欠だ梁啓超考えていた。陽明学宣揚は、国民国家精神注入すべく為されたものであったこうした国民国家精神陽明学注入する梁啓超考えは、当時明治思潮よるもの大きい。当時日本では欧化主義進展によって日本道徳倫理武士道精神退廃さらされていると考えられ、それらを陽明学再生しようとする風潮があった。これが明治期における陽明学熱の背景である。 こうした風潮梁啓超らは感化され明治日本において陽明学再発見再評価したのみならず陽明学とする国民精神創造運動取り込んだといえる

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