清末の実業振興
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1902年(光緒28年)、常徳知府の朱其懿の招聘を受け、熊希齢は常徳西路師範学堂副弁として公的活動を再開した。翌年秋、湖南巡撫趙爾巽により、常徳西路師範学堂監督に起用される。さらに趙に新政を進言してその実施を助けた。後に趙は、変法運動により処罰を受けていた熊の復権を中央に上奏し、成就させている。 しかし間もなく、趙の新政は反対派の抵抗にあって頓挫したため、熊希齢は実業界に転じる。1904年(光緒30年)、日本に実業視察に赴いた。帰国後、新任の巡撫端方に実業教育学校の創設を建言して賛同を取得し、各種学校を実際に成立させた。 1906年(光緒32年)から、熊希齢は外国憲法に関する資料収集を開始し、同年に『欧美政治要議』という書物を完成させた。その後、清朝で始まった立憲準備においても、熊は8項目の意見を奉呈した。同年9月、盛京将軍に異動していた趙爾巽の招聘を受け、熊は奉天農工商局総弁に任命された。 趙が奉天を離れた後、熊希齢は江蘇工商局総弁などの職を歴任した。1909年(宣統元年)、東三省理財政監理官に異動する。東三省では他にも様々な財務・実業の職務を担当し、熊は大きな成果をあげて高い名声を博した。
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