清末の台頭
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当初は国子監の学生であった。1872年(同治11年)、北京同文館に設けられた徳文館に入学する。1877年(光緒3年)4月、ベルリンの公使館で三等翻訳官をつとめる。1884年(光緒10年)、ドイツの軍事学校に入学して軍事技術を習得した。同年12月、清朝に派遣されていたドイツ将官の翻訳(通訳のこと)に任命された。 翌年6月、廕昌は天津武備学堂翻訳に任命され、後に武備学堂監督、幇弁、総弁と昇進した。1899年(光緒25年)冬、ドイツとの山東省における鉄道・鉱山の交渉を担当し、山東路鉱章程に調印した。1900年(光緒26年)3月、山東佐賛軍務に異動する。翌年3月には、正白旗漢軍副都統に任じられた。 同年7月、廕昌は駐ドイツ欽差大臣(駐ドイツ公使に相当)に任じられた。8月には駐オランダ欽差大臣(駐オランダ公使に相当)も兼ねている。1905年(光緒31年)に帰国して、陸軍部右侍郎に任じられ、江北提督も兼ねた。また、貴冑学堂総弁にも任ぜられている。1908年(光緒34年)9月、駐ドイツ欽差大臣に再任されている。1910年(宣統2年)3月、陸軍部尚書に任じられたため、帰国した。
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