清末から辛亥革命まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 14:36 UTC 版)
淮軍の劉銘伝部隊の兵士から軍歴を開始し、1886年(光緒12年)、天津武備学堂第1期で学んだ。1890年(光緒16年)に卒業する。宋慶の毅軍に加わり、日清戦争に参戦した。1895年(光緒21年)、天津小站で袁世凱の新建陸軍に加わり、工程営隊官となった。1902年(光緒28年)、北洋常備軍歩兵隊第7営管帯となり、翌年、歩兵隊第1標統帯に昇進した。 1904年(光緒30年)に袁世凱・鉄良が北洋陸軍6個鎮を編制すると、王占元は第2鎮歩兵隊第3協統領に昇進した。その後も順調に昇進し、1911年(宣統3年)4月、陸軍協都統位を授与されている。同年10月、武昌起義が勃発すると、王の第3協は第1軍に編入され、馮国璋指揮下で革命軍鎮圧に従事した。11月末には、王の部隊は李純の部隊と協力して漢陽を革命軍から奪回する。この軍功により、王は第2鎮統制に昇進し、副都統銜を授与された。
※この「清末から辛亥革命まで」の解説は、「王占元」の解説の一部です。
「清末から辛亥革命まで」を含む「王占元」の記事については、「王占元」の概要を参照ください。
清末から辛亥革命まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 14:00 UTC 版)
雲南省蒙自県のハニ族土司(逢春嶺・納更土司)の家庭に生まれる。成年になると、土司の家柄により、昆明で官位に就いた。光緒14年(1889年)、故郷に戻り、団練を組織している。 1904年(光緒30年)1月、広西省で発生した会党の大規模な蜂起が発生する。これを鎮圧するため、竜済光は両広総督岑春煊の動員に応じて広西入りした。竜は陸栄廷とともに会党鎮圧に貢献し、その軍功により、1905年(光緒31年)6月に署理広西右江道に任命された。 1907年(光緒33年)12月、孫文が鎮南関蜂起を起こすと、竜済光と陸栄廷はこれを鎮圧する。その軍功で、竜は署理広西提督に就任した。1911年(宣統3年)4月、竜は革命派鎮圧のため広東省へ異動する。 同年11月、広東で革命派が武昌起義に呼応して独立を図る。革命派は竜済光を副都督として取り込もうとしたが、竜は省独立を拒否した。しかし結局、胡漢民・陳炯明らが広東での蜂起に成功している。 中華民国成立とともに、竜済光はいったん綏靖処副経略に任命された。1913年(民国2年)、陳炯明らが第二革命(二次革命)を発動する。竜は袁世凱から広東鎮撫使に任命され、陳を駆逐して広東省の統治権を掌握した。同年8月、広東都督兼署民政長に正式に任命されている。1914年(民国3年)6月、振武上将軍督理広東軍務に任命された。
※この「清末から辛亥革命まで」の解説は、「竜済光」の解説の一部です。
「清末から辛亥革命まで」を含む「竜済光」の記事については、「竜済光」の概要を参照ください。
- 清末から辛亥革命までのページへのリンク