清末から護国戦争まで
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1908年(光緒34年)、胡景翼は西安健本学堂に入学する。1910年(宣統2年)春に中国同盟会に加入した。この時、胡は会党との連絡樹立に大きな貢献を行い、陝西省の同盟会で重要幹部と目されるようになった。1911年(宣統3年)、健本学堂を卒業する。10月の西安起義でも、胡は会党を招集して真っ先に呼応し、耀県、三原県、鄜県といった渭北の主要地区を確保すると、渭北起義軍総部を設置した。間もなく張鳳翽の秦隴復漢軍政府より第1標標統に任ぜられた。独立宣言を発すると秦隴復漢軍第1標は陝西陸軍第1標に改称され、北路安撫招討使兼起義総指揮・井勿幕(中国語版)の指揮下として甘粛省から鎮圧に来た清軍を撃破する軍功をあげた。 1912年(民国元年)、陝西都督となった張鳳翽は袁世凱を支持し革命派に圧迫をかけたため、胡景翼は日本へ逃れた。このとき、成城学校で学んでいる。1914年(民国3年)1月6日には、東京に同盟会が設立した浩然学社で学び、帰国直前には孫文(孫中山)と面会している。 8月に陝西省に戻った後は、陳樹藩率いる第3混成旅教導営軍官連で学び、その後、歩兵遊撃営営長に昇進。また、一方で革命派の拠点作りにも励み、袁世凱打倒の機会を伺った。なお、この時に、後の国民軍の同僚となる孫岳と知り合っている。 1916年(民国5年)3月、陝西将軍陸建章が護国戦争(第三革命)に呼応した省内の革命派を討伐しようとする。胡景翼は時機が熟したと判断して兵変を起こし、陸建章の子である第1混成旅旅長陸承武を生け捕りとし、陝北鎮守使兼渭北剿匪総司令に任命されていた陳樹藩にその身柄を引き渡した。陳は陸建章と取引して、陸承武を返す代わりに、督軍の地位を手に入れた。
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清末から護国戦争まで
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幼い頃は学問に励んでいたが、1903年(光緒29年)、軍の募集に応じる。1907年(光緒33年)、新軍第1混成協騎兵営排長に昇進して新民府に駐屯した。この頃から反清・革命派の思想に共鳴し始める。1910年(宣統2年)、新軍第20鎮に異動すると馮玉祥と知り合い、さらに革命派への傾倒を強めた。同年12月の革命派の灤州起義に参加したが、失敗に終わり、張之江は第20鎮から逃亡した。 民国成立後、かつての第20鎮統制であった張紹曽が山西督軍となる。張之江はこれを頼って晋北東路司令部二等参謀に任命された。1914年(民国3年)11月、馮玉祥が陝西省で第16混成旅旅長に任命されると、張之江はこれに加わり、第2団団長に任命された。翌年5月に、馮玉祥率いる第16混成旅が四川省に入ると、張之江もこれに従った。 護国戦争(第三革命)が勃発すると、馮玉祥は、反袁世凱の内心から、護国軍と戦うことを望まなかった。そして張之江は馮玉祥の命を受けて護国軍第1総司令蔡鍔と面会し、交渉を取りまとめて全面衝突を回避した。護国戦争終結後、第16混成旅は河北省廊坊に移駐して、張之江は騎兵営営長に任命された。
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