民国成立後
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1912年(民国元年)に宣統帝が退位し南北統一政府が組織される際、袁世凱より軍部の要職に就くよう懇請されたが辞して、南京留守役として江南の各軍を統括していた。孫文と袁世凱の妥協については、黄興はこれを支持する立場をとった。中国国民党を率いて内閣の首班となる予定だった盟友の宋教仁が袁世凱の配下に暗殺された際にも、孫文が討袁の軍を挙げようとするのに対し、黄興は最後まで法律的な解決を望んだ。しかし、袁世凱政府が無謀な外国借款を繰り返すのには反対し、国民捐募集を唱道している。 1913年3月から始まった第二革命には、孫文に呼応して南京に拠り討袁軍を起こした。同年7月12日、李烈鈞が江西省にて蜂起し、つづいて江蘇省で黄興、上海で陳其美、広東省で陳炯明、安徽省で柏文蔚、四川省で熊克武、福建省で許崇智、湖南省で譚延闓が蜂起した。李烈鈞が七省討袁聯軍司令となり、黄興は南京で独立を宣言した。しかし、革命軍は袁世凱に敗れ、孫文は台湾に亡命し、黄興は日本に逃れて犬養毅邸にかくまわれた。1914年7月、孫文は日本で国民党を改組して中華革命党を立ち上げたが、黄興はこれには参加しなかった。革命党の誓約に「孫文先生に附従して、再び革命を起こす」とあるのを拒否したためであった。孫文はさかんに黄興を引き留めたが、黄興は党員の絶対服従を求める少数精鋭の秘密結社ではなく、ゆるやかな革命連合戦線の組織を望んだのである。同年8月、黄興らは東京において欧事研究会を結成した。この研究会の名は、欧州情勢の重大さ(すなわち第一次世界大戦)について、集合して討論することを目的としたことから付けられた。欧事研究会の結成で中心となったのは、黄興とかねてから親しかった李根源と章士釗であった。このほか発起人には、彭允彝・殷汝驪・冷遹・林虎・程潜などが名を列ねた。会員は100名余りを数え、これ以後も護法運動で活躍したり、国民政府に参加したりする著名な人士が参与している。黄興はこののち、アメリカ合衆国に移り、資金調達に奔走した。 1915年に袁世凱が皇帝を称し第三革命が始まると日本に赴き、1916年6月22日に上海に帰った。当時は孫文一派と感情的に衝突していたが、次第に融和し、護国軍や旧国会議員と連絡を保ち種々画策するところがあったが、その年の10月31日に病死した。死因は過労による肝臓疾患であった。黄興死去の前の日、孫文が見舞に訪れている。
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民国成立後
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1913年(民国2年)4月、張勲は早くも溥儀再擁立を画策したが、事前に計画が漏れたため断念している。袁世凱に反感を抱いた孫文(孫中山)ら革命派が第二革命(二次革命)を起こすと、7月に張勲は袁世凱の命を受け革命派を鎮圧した。9月1日に南京を攻略した際に、3日にわたって放火・略奪・殺戮を縦にしている(1913年南京事件)。鎮圧の軍功により、張勲は江蘇都督に任命され、12月には長江巡閲使に転じて徐州に駐屯した。 1915年(民国4年)、武衛前軍は定武軍と改称され、定部上将軍に任命された。同年中に袁世凱が皇帝即位を画策し、実際に即位すると、清朝復権を望んでいた張勲は不満を示すようになる。ところが護国戦争が勃発すると、張は護国軍には与さず袁世凱支持に転じた。1916年(民国5年)4月には安徽将軍(同年7月より督軍)に任命され、この頃には57営、約2万人の兵力を率いていたとされる。 袁世凱死後における大総統黎元洪と国務総理段祺瑞との政争(府院の争い)では、張勲は段を支持した。また復辟の画策を開始し、その一環として康有為らの助言を受けて孔教(儒教)国教化を公然と要求した。6月、7省の督軍を徐州に召集して段を支持する「督軍団」を結成、そのリーダー格と目されるようになる。9月にも張は徐州で会議を開催し、督軍団を13省まで拡大して「十三省区連合会」を結成、張が盟主として推戴された。
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