清末の事績
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21歳で秀才となる。23歳で郷試に合格して挙人となった。1898年(光緒15年)、開封府発審差兼按察使署督審局議員として任用される。以後、各地の知県をつとめた。1902年(光緒28年)、河北鉱務局総弁兼交渉局会弁に異動する。翌年11月、河北で養蚕業の学校の総弁をつとめた。1905年(光緒31年)、日本へ実業の視察に訪れる。 翌年の帰国後は、陸軍参謀処及鉱政調査局総弁に任じられた。まもなく、趙爾巽の配下として奉天省に異動する。1907年(光緒33年)2月、奉天交渉局局長兼開埠局局長、農工商局副局長に任命された。同年8月、両広督練公所参議兼兵備署総幹に転任した。1909年(宣統元年)9月、奉天勧業道及署工商司に異動する。1910年(宣統2年)2月、葫芦島商埠督弁を兼任した。1911年(宣統3年)、弁理防疫事宜に任命され、9月、吉林民政司司長に昇進した。
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清末の事績
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21歳で廩生となり、最初は漢方薬店を運営していた。後に日本人が創設した南金書院という学校で漢文教員を務める。1907年(光緒33年)、遼陽地方団総・袁金鎧の命により、王は租界での日本の警察行政を調査する。 まもなく遼陽で警務学堂を創設した。王は、ここで警察人員の養成に努め、後に東三省総督趙爾巽からその功績を表彰されている。その後も、遼陽警務所長、南路巡防営管帯などを歴任した。辛亥革命勃発に際しては、革命派討伐に従事している。
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清末の事績
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軍歴の開始はかなり遅く、1884年(光緒10年)に初めて長沙で兵士となった。その後、広西提督蘇元春配下となり、1891年(光緒17年)に参将となっている。1894年(光緒20年)、宋慶の毅軍配下として奉天に駐留している。翌1895年(光緒21年)に天津へ異動して袁世凱配下となり、工兵営管帯に任ぜられた。1899年(光緒25年)、山東へ赴き義和団鎮圧に貢献、副将・総兵に昇進している。 1902年(光緒27年)、張勲は北京へ異動し、西太后(慈禧)と光緒帝の警護の任に就いた。1906年(光緒32年)、再び奉天に赴任し、奉軍遼北総統として昌図県に駐留している。その2年後には雲南提督・甘粛提督に次々と任ぜられたが、実際には就任せず昌図に駐留し続けた。1910年(宣統2年)、南京の浦口へ異動し、江防営を統率することになり、更に1911年(宣統3年)8月には江南提督へ昇進している。 同年10月、南京に駐留していた新軍第9鎮が武昌起義(辛亥革命)に呼応して蜂起すると、張勲は両江総督張人駿の召喚に応じて南京城へ急行、革命軍を雨花台で迎撃してこれを一時は退けた。しかし次第に革命派が勢力を増強していき、それでも張勲は紫金山などで頑強に抗戦したが、12月には衆寡敵せず徐州へ後退を余儀なくされている。その後、張勲は清朝から江蘇巡撫に任命され、更に両江総督兼南洋大臣に昇進した。 1912年(民国元年)1月に中華民国が成立したが、張勲は依然として反革命の姿勢を堅持し、宣統帝への忠義を保った。翌月、袁世凱が中華民国大総統代理に就任すると、不承不承ながら張勲は武衛前軍としての再編を受け入れ、山東省兗州に駐屯している。しかし若き頃からの苛烈な性格からか、近代化の世に至ってもなお洋装を嫌い、張勲もその配下の兵士も辮髪を切る事は無かった。張勲自身は終生辮髪を切らなかったと言われ、後に「辮帥」(辮髪将軍)と称された。
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