清末外交における『万国公法』 ―活用事例―とは? わかりやすく解説

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清末外交における『万国公法』 ―活用事例―

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 14:35 UTC 版)

万国公法」の記事における「清末外交における『万国公法』 ―活用事例―」の解説

ここまで清朝近代国際法どのように受容したかについて述べてきたが、清朝はただそれを受動的に受け入れてきたのではない。そもそも後述するように、西欧列強説き伏せる道具として『万国公法』を受容したのであり、その道具としての活用そのものは、早期からなされている。以下は活用事例一部である。 普丹大沽口事件――実際外交において国際法最初に活用されたのは、1864年の対プロシア交渉とされる当時プロシア(普)とデンマーク(丹)との間には戦争発生していたが、プロシア清朝領海内である大沽口ベルギー船籍の船を三隻拿捕した。これに対し恭親王奕訢主権侵害する行為としてプロシア非難しその際万国公法』を根拠として持ち出している。当初頑なだったプロシア側も、奕訢新任プロシア公使との接見拒絶するなど、清朝強硬姿勢を示すと折れ1500ポンド賠償金支払い拿捕したベルギー船を解放している。事件発生時にはまだ『万国公法』が刊行されていなかったが、その内容について清朝側はすでに把握していたのである(田2001)。 華僑保護――清朝貿易従事といった理由から出国し帰国しないで海外に居を定めた華僑について、清朝積極的な保護をしてこなかったが、西欧諸国貿易立国根本据え海外商人積極的に保護していることを知るようになると、清朝も「万国公法」によって華僑の保護乗り出すようになった茂木2000)。 清露伊犁交渉――1871年ロシアは軍を派遣して伊犁を占拠した。これに対し清朝は、左宗棠派遣して新疆地域割拠していたヤクブ・ベク撃破掃討せしめ、伊犁を除く新疆地域の支配回復した。しかし依然としてロシア軍は伊犁に駐留したため、その撤兵についてロシア交渉することとなった。その交渉巡って是か非か激し論争清朝内で起こったが、各論者とも『万国公法』等を何度も引用し己が主張の根拠としている。また交渉あたった曽紀沢国際法則ってロシアとの駆け引き展開した(田2001)。

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