清末外交における『万国公法』 ―活用事例―
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ここまで清朝が近代国際法をどのように受容したかについて述べてきたが、清朝はただそれを受動的に受け入れてきたのではない。そもそもは後述するように、西欧列強を説き伏せる道具として『万国公法』を受容したのであり、その道具としての活用そのものは、早期からなされている。以下は活用事例の一部である。 普丹大沽口事件――実際の外交において国際法が最初に活用されたのは、1864年の対プロシア交渉だとされる。当時プロシア(普)とデンマーク(丹)との間には戦争が発生していたが、プロシアは清朝の領海内である大沽口でベルギー船籍の船を三隻拿捕した。これに対し恭親王奕訢は主権を侵害する行為としてプロシアを非難し、その際『万国公法』を根拠として持ち出している。当初頑なだったプロシア側も、奕訢が新任のプロシア公使との接見を拒絶するなど、清朝が強硬姿勢を示すと折れ、1500ポンドの賠償金を支払い、拿捕したベルギー船を解放している。事件発生時にはまだ『万国公法』が刊行されていなかったが、その内容について清朝側はすでに把握していたのである(田2001)。 華僑保護――清朝を貿易従事といった理由から出国し、帰国しないで海外に居を定めた華僑について、清朝は積極的な保護をしてこなかったが、西欧諸国が貿易を立国の根本に据え、海外の商人を積極的に保護していることを知るようになると、清朝も「万国公法」によって華僑の保護に乗り出すようになった(茂木2000)。 清露伊犁交渉――1871年、ロシアは軍を派遣して伊犁を占拠した。これに対し清朝は、左宗棠を派遣して新疆地域に割拠していたヤクブ・ベクを撃破掃討せしめ、伊犁を除く新疆地域の支配権を回復した。しかし依然としてロシア軍は伊犁に駐留したため、その撤兵についてロシアで交渉することとなった。その交渉を巡って、是か非かの激しい論争が清朝内で起こったが、各論者とも『万国公法』等を何度も引用し、己が主張の根拠としている。また交渉にあたった曽紀沢も国際法に則って、ロシアとの駆け引きを展開した(田2001)。
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