華僑の保護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/14 13:47 UTC 版)
篠崎は、1947年に行われたシンガポール華僑粛清事件の裁判に検察側証人として出廷した際に、日本軍のシンガポール占領直後に昭南警備隊によって行われた同事件に際し、日本軍による住民の大量虐殺があったことを認める一方で、自身が同警備隊の河村参郎司令官から良民保護の依頼を受け、これに従って保護証数万枚を不特定多数の市民に配り、また警備隊の分隊長と交渉して、同警備隊に殺害されそうになった華僑数千人の人名を救った、と証言して河村に対する情状酌量を求め、自著の中でも同趣旨の叙述をしている。 また篠崎は自著の中で、華僑協会は華僑の助命を促すために自身が設立した団体で、同協会は華僑強制献金を推進した団体と思われているが当初は性格が異なり、自身は強制献金には関与していなかった、としているが、原 (1987, pp. 90-93)は、華僑協会はシンガポールでの設立以前にマレー半島の他の都市でも設立されており、また篠崎の著書では協会が強制献金を推進した時期が歪曲されていて、篠崎が協会に関与していた協会の設立当初から協会は強制献金を推進していたとして、篠崎を批判している。
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